震災クロニクル11/16~12/31(54)

冬の到来は突然。
急激に寒くなり、朝焼けの街にはうっすらと霜が毛布のようにかかった。山から吹き下ろす木枯らしは恐らく放射性物質を巻き上げ、せっかくの除染をまた一からに戻してしまう。毎朝、原発と規制がかかった区域へと向かう車の群れはこの街の日常となった。暗いうちから颯爽と作業車両が飛び出していく。

ホテルから、仮宿舎から、旅館から、アパートから。

市のホームページを見ると、住人の数が毎日アップデートされていた。確実に減っている。市外に転居したり、福島から出ていったり、事情は様々だろうが、確かに毎日少しずつこの街から出ていっている。

そうか、いや、そうだろうな。さもありなん。

自分も経済的に余裕があればそうしているだろう。ただ今はここに仕事がある以上、新しい生活の場を模索なんてできない。結局のところ、ここに留まるしかない。
とても複雑な気持ちである。東京から帰ってきたあの日、自分は「死ぬなら地元で死にたい」という悲壮な覚悟で帰ってきたつもりだった。だが、今は違う。この変わり果てた街に見切りをつけたいという気持ちで心は埋め尽くされていた。

毎日の見慣れた光景も震災前なら想像もしなかったような映像で、自分達の脳裏に焼き付いた。

東京電力からの仮払金や賠償金、義援金にどっぷりと使ってしまった人々は果たしてこの生活から抜け出せるのだろうか。おそらくは無理であろう。狂ってしまった金銭感覚と失った労働意欲はなかなか戻らない。
パチンコ屋の満車の駐車場がそれを物語っている。

11月も終わりに差し掛かり、仮設住宅のすきま風が冷たいと方々から聞かれるようになった。ホームセンターでパテを買って埋めたり、遮蔽物を置いて凌いだり、工夫をして仮設住宅の生活を遣り繰りしているのはほとんどが老人だ。

若い人たちはもうどこかに消えた。余力のある人はこの街を捨てたのだろう。

外灯が整然と並んだ仮設住宅を寂しく煌々と照らしている。夜になればパトカーの巡回と青パトの住民パトロールが町中を走っている。深夜買い物にでも行こうものなら、職務質問やら所持品検査やらで時間を食われる。

そうここはそれほどまでに治安が悪いのだ。

若い人が出ていくのには十分すぎる理由だろう。

冬を迎えるこんな晩秋に遅れていた住民税の納付書が届いた。

「しっかりととるのね」

遅延するなら連絡くださいとのプリントも同封されている。仕方なしに払うのだろうが、免除されている地区もあると考えると、不謹慎であるが「いいなぁ」と思ってしまう。財布の紐が緩みっぱなしの自分が言うことではないのだが。

結果的に

「震災が自分の懐事情を楽にした」

そんな被災者がその中にはごまんとできたのだろう。自分もそうなのかもしれない。

ふと、自分の心の真ん中に針が刺さったかのような痛みが辛かった。

一括で住民税を支払うと、今後の生活が少し不安になった。毎日の仕事がいつまで続くのか、そして次の仕事があるのかどうか。事実、震災から再開した店と廃業した店は明らかに後者の方が多かった。もちろん閉めてるだけで、営業保証をもらっている店もたくさん、たくさんあるのだけれど。

福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》