戦略的モラトリアム㉗

二〇〇〇年 一一月 受験日    天気 晴れ  舞台 専門学校の寮 
     精神状態 普通

 早朝。僕は部屋の電気を消すと、静かに寮を後にした。足取りは速く、軽快なリズムを刻んでいた。駅に着き、電車に乗り込むと、休日であるためか、人はまばらだった。都会の喧騒が目覚めるほんの少しの時間。それが今だ。吐く息は白く、景色は透明度を増す。ビル群はただ地球に刺さったまま動かない。電車の中から眺める都会は少しだけ自然の情緒と人の所業の空虚さを音もなく奏でていた。
 日が昇った後、少しだけ垣間見える都会の歪みに致命的な人間を見た僕は大学にたどり着いたときにはもう何かを悟ったかのような賢人にでもなっていたのだと思う。秋の様相を帯びた都会の目覚めはビル群を焼け野原にして、神々しく燃え立っていた。
 

 続々と集まってきた受験生は制服を着ている奴もいれば、人それぞれである。
 やがて、試験時間になり、問題用紙と解答用紙が配られると、ピンとはった空気が今にもちぎれんばかりにキリキリ悲鳴をあげる。
 「始めてください。」
 チャイムとともにカリカリと唸る鉛筆。僕もそれに乗じて軽快にペン先を走らせていた。何かが集約され、ぎゅっと詰め込まれた受験場は何百人もの受験生がいっせいに集まる圧縮ファイル。僕も圧縮されていた。ギュッと詰め込まれた受験場が試験場にもかかわらず、面白くてたまらなかった。
「試験終了です。ペンを置いてください。」

 試験官の声が張り詰めた緊張の糸を一気に弛ませた。一斉に起こる受験生のため息に試験場の空気が流れる。

 筆記試験が終わり、面接の時間。場所を移動し、一人ずつ教室らしきところに入っていく、僕はその何番か後ろのほうにいた。前と後ろの緊張感に苛まれ、うっとうしかったけど、どうにか自分の順番にたどり着いた。

 教室に入ると、面接官が二人。爺さんと婆さん。きっと、とても偉い教授なんだと思う。静かに荷物を置き、席についた僕はありきたりの質問を受けた。それはどれも想定していたことで、快活に答えられたかと思う。幾許かの質問の後、婆さん、もとい、女性の教授らしき人物が
 「あら、あなた専門学校に行ってるの?珍しいわね。」
 その言葉から、教室の空気がだらりと緩んだ。しばし面接官同士で世の中も変わったなどとどうでもいい話をした後、その空気にのって、男の教授らしき面接官が、
 「ジャズは好きかね?」
 と聞いてきた。入試の面接とは思えないような質問に僕は戸惑った。
 「そうですねぇ。ジャズは深夜にタバコの煙に巻かれて、カウンターで聴くって感じですかねぇ。」
 「いや、僕はただ、好きかどうか聞いただけなんだけどね。」
 とっさに、
「ああ、すっ、すいません!好きです!」
 教室が三人の笑い声でいっぱいになっていた。一気にだらりと下がった空気を元に戻すのは難しく、半笑いで面接を終えた僕は、半笑いのまま大学を後にした。
 

受験を楽しんだ僕は意気揚々と寮へ向かった。不思議と受かろうが受かるまいがどうでもよかったって感情が取り巻いていた。ただ、確信めいた感情の根っこみたいなものが気持ちのどこかに張り付いていたけどね。

それから合格発表までの時間はテープの早送りの如く、颯爽と流れていった。僕も珍しくその流れにうまく乗れたと思う。機械的に物事をこなし、何とか発表日にたどり着こうと必死だった。
 過ごしやすい関東の秋。時折、吹く風は乾いた空っ風。少し怖くなったりもしたけれど、臆病な自分はただ、それを意識的に無視し続けたんだ。昨日までの僕の足跡は晩秋の秋風
で、しっかりと消されていた。だから、僕はあえて振り返るといった行動をしなかった。決して振り返るのが怖かったんじゃない。そんな空元気ともとれる、何とも不思議で、テレビサイズの時間の進み具合だったと思う。

福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》