戦略的モラトリアム【大学生活編⑧】

日時

8月のある昼下がり。相変わらず暑い。近くの街では40度だってさ。

携帯やら無料のタウンワークやらでアルバイトを調べ始めた。無難にコンビニかファミレスか……。果たして労働意欲がさほど高くないこのモラトリアム人間を雇ってくれるのだろうか。

街中をさまよいながら、『求人』の貼り紙に目をやっては、これではないと、また歩き始める……そんな日が数日続いたある日、タウンワークのとある募集に目が留まった。

塾講師募集

まさか……そんな馬鹿な。目に留まった自分を疑うかのごとく、目をそらした。「学校」というものに抗い、結果的にはドロップアウトしてしまった苦い過去。それは心の中のもっともっと奥の方から叫び声のこだまのように耳を貫く。

中学、高校とどんな思いで登校したのか。また、どのように不登校になったのか。あの醜悪の吹き溜まりはもう二度と見たくもない。仮にここで働いたとしたらあの思い出がフラッシュバックするに決まっている。
今、自分がここに至るまで、どんな思いでもがいてきたのか。

自問自答を繰り返した。どう考えても、塾講師が自分に適していないように思える要素はしっかりと揃っている。

でも、何故だろう。心のどこかに引っ掛かる。きっとこれは本心の一部が漏れ出した症状なのか。

「敷かれたレールに沿った生き方があった」

そんなもうひとつの人生を心のどこかで羨ましく思っている。そんな自分を認めたくはないが、きっとそうなのだろう。しばらく考えた末に

「普通の中学生や小学生はどんな感じなんだろう」

という素朴な疑問が出てきた。不登校になり、普通とは異なる10代の潜水生活を佐野元春の曲のタイトルように送ってきた自分の羨望の眼差しがギラッとそこに向かった。

疑問が興味に変わるその寸前。

教壇に立つ自分を想像し、吹き出してしまう。

あり得ない絵じゃないか?不登校の先生なんて今まで見たことがないし、想像もしたことがない。だから、自分がそれになってみるのも面白いことじゃないか。そうだ。やるしかない。やればこの暇を潰せるし、実家への背信も贖罪できるかもしれない。

モラトリアムに目的のある行動が伴った滑稽な絵がそこにはあった。

福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》