震災クロニクル4/21~30(43)

仕事が始まった。自宅のアパートから片道50キロの小さな場所。そこで勤務だ。山の中で、小さな小さな仕事場。初めて向かうと、その仕事場に朝向かうとき、が図多くの自衛隊車両や作業車、大型ダンプとすれ違う。山道なので、スライドするのがものすごく怖い。うねった国道をトコトコ仕事場に向かう。

放射線量は自宅よりも高い。それは原発から距離はあっても風の通り道だったからだろう。ガイガーカウンターは鳴りっぱなし。

このガイガーカウンターは自分が住んでいる街でとあるスーパーが再開したとき、無料で貸し出しをしていたものだ。自分の身の回りの放射線量を知りたくて、1週間レンタルしたものだ。仕事場の放射線量が知りたくて、仕事に持参した。福島第一原発から30キロ以内の自宅(約25キロ)と比べると、距離は大分離れている。放射線量は20倍を超えた。車は内気に切り替え、マスクを常備した。流石に自分の危機感を覚える。

勤務していると少し違和感がある。道路を挟んだ向こう側に人の気配がないのだ。自分が勤務しているところは浜通り添いの市の一番山側の地域。道路を挟むと、山の市に変わる。山の市は避難を決めたらしい。人はほとんどいないそうだ。しかし、道路を挟んだこの仕事場が属する市はあくまで自主避難で、公務員はほとんど勤務している。この異様な光景は自分のトラウマとなった。放射線量が比較的低い浜沿いを基準にすると、同じ市に属している地域はその基準で避難が決められる。道路を挟んで隣の市は、山間部の市で、放射線量が高い。そのため避難を決めた。そして、今自分がいる所は明らかに放射線量が高い。しかし浜沿いの基準なので学校も再開してしまう。放射線が行政区分で、広がるのだろうか。本当にばからしい話だ。


ここからはB市だから、入らないようにしよう。


放射線がそんなことを思うのだろうか。大気に国境線が引けないのと同じように、放射線量も一概に市町村単位で区分けできないのだ。そんなことは原発事故当初から分かっていることなのに。

震災後の原発爆発の時、同心円で円を描いたのが何よりの証拠だ。放射線は行政区分に関係なく拡散する。さらに言えば、あの同心円も間違いだった。そのときの風の流れで、必ずしも円状には広がらなかった。海から吹く風で、それは山間部により多く流れていった。だから原発から25キロの自宅よりも50キロ以上離れているここの方が放射線量が高いのだ。事実、飯館村は30キロ以上離れているのに村民は全員避難をした。放射線量が格段に高かったためである。

今、自分はここで働き続けることに大きな不安を持ち始めていた。本当にここにこのまま働いていてよいのだろうか。避難先から戻ってきたとき、あれだけ「死」を覚悟したにもかかわらず、今は「生」にしがみつこうとしている自分が滑稽にも、浅ましく、さもしく、惨めに思えた。まさにそれが「被災地で生きる葛藤」なのだろう。

勤務し始めて数日。自分の心には大きな変化が起きようとしていた。

福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》