もうすぐしぬんだな

最近「あ、もうすぐ死ぬんだな」と感じることが増えた。死にたいとか病気だとかではなく、人(含む自分)っていつか死ぬんだな、という事実への実感が強まったという意味だ。

そう感じるのは身近な人を亡くしたからかもしれないし、年齢のせいかもしれない。とにかくこれまでは見えなかった(見ないようにしてきた)歩んでいく道の先の「死」が以前よりはっきり感じとれるようになった。

それにしてもゴールが死というのはおかしな話だ。「死ぬほど頑張る」とか「死ぬほど笑った」とはいうが「死ぬために頑張る」「死ぬために笑う」とは言わないように、死ぬというゴールのために生きるわけではない。

いやそもそも死はゴールではない。じゃあ何だと言われてもわからないが、ただそこにあるもの、以上のものではない気もする。昔は「ただそこにある」ことさえもわからなかったけど。一回氷河で遭難して死にかけたくせに。

「銀河の死なない子供たち」という傑作漫画があって、これは汚染が進んで誰も住まなくなった地球に生きている不老不死になった(された)男の子と女の子の話なんだけど、そこで不老不死は呪いのように描かれていた。「ランド」という漫画でもそれに近い表現をしてたな。

不老不死を求める話は古今東西たくさんあるけど、いざ不老不死になってみると絶望に襲われる話や、不老不死になれるのに拒む話もたくさんある。「火の鳥」とか(例えが漫画ばかりだ)。

その二律背反はなんなんだろう。

それはもしかしたら、人は心の奥で、死から逃れることは生からも逃れることになると直観的に感じてるからじゃないだろうか。死という黒バックがなくなると、生の輪郭もあやふやになる感じ。

「いつか死ぬ」の反意語は「永遠に生きる」ではなく、たぶん「いまを生きる」だ。そう考えると「もうすぐ死ぬんだな」と感じることは「いまをどう生きるか」を考えるエネルギーになるし、くっきりと濃い生の輪郭を描くための背景になる。

ということは、歳をとればとるだけ、死を強く感じるだけ、生の濃さが増してくるということだ。

死を感じることが生への讃歌にもなる。そう考えると恐れは希望になり、いまを歩む足どりはより力強いものになる。




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