センチメンタルな旅・夏の旅

ちょっとした用事を済ませるために兵庫県に来た。

兵庫は僕が生まれた場所であり、祖父母の家に毎夏遊びに行っていた思い出の場所であり、大人になってからしばらく住んでいた馴染みの場所でもある。

用事を済ませたあと、時間があったのでふと思い立って僕が生まれた家(かつて祖父母が住んでいたが亡くなったいまは空き家だ)を訪ねてみることにした。

神戸に住んでいた頃はたまに訪れていたが、東京に引っ越してからは初めてだ。7年ぶりだろうか。

僕はこうやってふと思い立って行動することがよくある。そのせいでよく両親に呆れられていた。まあ今回はお盆だしお墓まいりも兼ねてという理屈付きで急に訪ねてみようと思ったのだ。

そこは丹波篠山という、町というより村といった方がしっくりくる場所で、となりのトトロのあの風景を思い浮かべてもらうと大体その通りだと思う。祖父母の家も含め、未だに茅葺屋根の家が多い場所だ。ちなみに裏山では猪が走り、鹿が鳴く。そう書くともののけ姫の世界みたいだけど。

バスは1日3便しかなく、最寄りのコンビニまでは車でないと行けず、子供の頃は近くの日用品からお菓子まで何でも売ってる森本酒店(細い道沿いにあったので「細道」と呼んでいた)でよくアイスを買って食べていた。農家が多いのでみんなだいたい作業着かモンペを着ている。

昔と同じように電車で向かう。昔は両親と弟と一緒だったが、いまは一人で。

昔と違うのは最寄り駅に車で迎えに来てくれる祖父がいないので、レンタカーで行かないといけないことだ。祖父は少し足が悪かったが運転は達者で、駅の階段を降りていくと駐車場に停めた車の横で笑顔で手を挙げている祖父がいて、子供の僕は走り寄っていったものだ。

小さい頃はつるりと禿げた祖父の頭を会うなりペタペタしてたらしいけど、大きくなってからは流石にやめて、こちらも軽く手を挙げ返すだけになった。喜びを素直に表現できない10代よ。

電車の中にはかつての僕のような子供と家族が何組かいて、かつての僕のように、兄弟でいつもより高い里帰りテンションでじゃれあっては親に笑顔でたしなめられている。一瞬タイムスリップ感を覚えて胸がキュっとなる。

前々から思っているんだけど、この胸がキュッとなる現象は、何か失われてしまったものの存在に気づくことで心に穴が空き、急に空いたその穴に空気が一気に流れ込むから起きるんじゃないか。たぶん違うけど。

その胸の痛みをきっかけに、普段の生活ではあまり思い出さない祖父母の記憶があふれだしてくる。Out of sight, out of mindという残酷なことわざがあるが(だって「視界からなくなると心からもいなくなる」って正しすぎて残酷じゃないですか。たとえ目の前からいなくなってもずっと心の中で生き続けるって願いに似た想いを真っ二つにぶった切ってて)、たとえ本人はいなくても、本人と過ごした情景に触れると心に蘇ることを実感して少しホッとする。

篠山口駅につく。だいぶ前に建て替えられていて昔の面影はないが、祖父が迎えに来てくれていた駐車場の名残はある。夏祭りのポスターがそこかしこに貼られている。そっか、今週なんだデカンショ祭り。

僕が駐車場に降りた途端「プッ」と短いクラクションの音。昔の祖父と同じ鳴らし方だ。こんな不意打ちはやめてほしい。涙腺が緩むじゃないか。

昔の僕らを迎えたように、誰かの家族が駅に着いた親子を車で迎えに来ていた。迎える側も迎えられる側も幸せそうに笑っている。こんな笑顔の交換は時代を超え、世代をまたいで変わらず続いてほしいなと願う。

昔と違って免許を持っている僕は、レンタカーで生家に向かう。祖父の助手席で見ていた景色を運転席で見ながら。子供の頃から何十年経ってても、びっくりするほど変わらない風景の中を。時々ナビの音声が聞こえてこないと、うっかり過去に戻った気分になりそうだ。

だんだん風景が馴染みのあるものへになっていく。子供の頃よく湧き水を飲みに行っていた、弟が蜂に刺された神社。お菓子を買いに行っていたよろず屋。組合マーケットはなくなって村の集会所になっていた。そして森本酒店。里帰りのとき限定の近所の友達の家、、、そしてあの曲がり角を曲がるとおじいちゃんおばあちゃんの家がある。細いカーブを車でそろそろと曲がると、、、誰もいないはずの家の庭に洗濯物や布団が干してあるのが見えた。

ほんとにこんな不意打ちはやめてほしい。タイムリープしたかと思うじゃないか。いやしたのか?

そんなわけないと思いながら、田んぼのあぜ道側の入口が庭に通じているのでそこから家に入る。

家の中から聞こえる甲子園中継の音、立て掛けてある農具、古いデザインのベビーカー、風にはためく洗濯物。時間が止まったかのような、あの頃に戻ったような光景。

そんなわけないと思いながら、おばあちゃんの「よう来たったに」という声や従姉妹がはしゃぐ声、子供の頃の弟の姿が見えやしないかと淡い期待を寄せて「こんにちは、、、」と声をかける。

「おー、まーくんか」とおじさんがビックリした声をあげて出てくる。あの頃の姿ではなく、時を経て相応に年をとった姿で。

わかってはいたが、おじさん家族が夏休みで遊びに来ていたのだった。ほんとに期待していたわけではないが、少し寂しくなりつつ、急に来た非礼を詫びて、家にあげてもらう。

誰もいないと思っていたのでお墓だけ参ろうと思っていたが、仏壇にお線香もあげることができてよかったと思いながら、しばらく思い出と近況報告が入り混じった話をして、お墓まいりへ。

弟とどんこをすくった小川に沿って歩き、井戸掃除の時に大量のザリガニをとった井戸を横目に見ながら山道へ。お墓は山の裾野あたりにあるのだ。

気を抜くと子供の頃の僕と弟が木の陰から飛び出してきそうだ。お兄ちゃん待って!という声とともに。

お花とお線香を御供えして家に戻ると、また麦茶を飲みながらよもやま話。そして家の中を色々見て回る。田舎の家なのでとにかく広い。神は細部に宿ると言うけど思い出も細部に宿る。

お風呂を嫌がる僕に、入るたび100円をくれたおばあちゃん。その100円を貯めておいた引き出しはまだ健在だ。もちろん貯めた100円はすでに健在ではない。

タンスの上にある「百万ドルを取り返せ!」という文庫本は、僕が高校生くらいの時におじいちゃんの本棚から持ち出して読んでいたものだ。まだ同じ場所にあったのにはびっくりした。

汲み取り式のトイレや五右衛門風呂はなくなったけど、茅葺き屋根や裏庭の栗の木やザリガニ釣りをした池はまだあった。タンスの中には僕がいつ来てもいいように揃えてくれたパジャマや普段着がまだあった。これいつのだ。大学生の時か?

何もかも変わらないように見える家の中、僕だけが確実に年を取り変わっているという事実は、僕が未来からタイムリープしてきたかのような感覚を生む。

思い出はいつも綺麗だけどそれだけじゃお腹が空くわって歌を思い出し「いやそれだけでお腹いっぱいなんですけど今」と思う。

これ以上いっぱいにならないように帰ろうと(もともと家には入れないと思ってたので、神戸で泊まる予定だったのだ)晩御飯の誘いを断ってレンタカーで篠山口駅に向かう。

後ろ髪を引かれつつ電車に乗り、現在へと無理やり時を戻す。生まれた場所がだんだん遠くなり、いつもの世界が近づいてくる。でも心はまだ祖父母の家に置いてきた感じがしてなんだか落ち着かない。

どうせこのまま1人で神戸に泊まるんなら、戻って祖父母の家に泊まった方がいいんじゃないか、でももう電車に乗ってるしなあ、、、と迷ってると宝塚についた。その次は尼崎だ。宝塚は感覚的に篠山に戻れるギリギリの場所だ。尼崎に着いたらもう戻らないだろう。そして次に訪れるのはまた数年後になるだろう。いやもっとかもしれない。

いつのまにか電車を降りていた。ドアが閉まり現在を乗せた電車が去っていく。過去と一緒にホームに降り立った僕は、おばさんに電話をかけ、今日祖父母の家で一泊させて欲しいとお願いしていた。

快く迎えてくれたおばさん家族と晩御飯を食べ、今夜は流星群が見れるらしいというので外に出て夜空を見上げる。残念ながら流星群は見えなかったけど綺麗な星空だった。灯がほとんどないから低い空にも星がまたたくのだ。

昔はうるさいくらい鳴いていたかえるも、水を張った田んぼが少なくなったせいか静かなものだ。それはそれで少し寂しい。

お風呂から上がって、学生時代のTシャツと短パンに着替える。仏間に敷かれた布団の横では扇風機が涼しい風を送っている。縁側の網戸からは夜の涼しい風が吹いてくる。ほんとに自分以外は昔のままだ。何だろうこの感覚、と思って思い出したのが「おもひでぽろぽろ」という映画だ。この旅はジブリ映画をよく思い出す。

高畑勲監督の「おもひでぽろぽろ」は大好きな映画だが、最初見たときはそこまで深く刺さってなかった。自分の話だとは思えてなかったからだと思う。今となっては自分の話だと思える。まさに今回の突然の旅は「私はワタシと旅にでる」ものだったからだ。

いろんな瞬間に、いろんな年齢の自分を感じた。毎夏1ヶ月くらい遊びに来ていた小学生の頃の自分や、祖父母が亡くなった時の20代の自分、親戚一同で集まることが少し照れくさくてご飯の後はすぐ二階に上がって本を読んでいた思春期の頃の自分。

まるでこの家の色んな細部にあの時の自分がずーっと住みつづけていて、ふとしたきっかけで目が合って今の自分と再会するかのようだ。それはたくさんの幸せな記憶がここで生まれたからで、だからこそいま味わうとその取り戻せなさに胸が苦しくなることもあるけど、取り戻せないからこそ変わることのない、かけがえのない宝物だ。

これからもきっと、その取り戻せなさとかけがえのなさの間で心を揺らしながら、色んなジブンと別れたり、再会したりして生きていくんだろう。そしていまこの瞬間の自分も、未来の自分にとってはかけがえのないジブンになっていて、いつか再会するのかもしれない、、、と思いながら眠りについた。子供の頃のような深い眠りだった。

そしていま、東京へ向かう新幹線の中でこの文章を書いている。noteを始めてしばらく経つけど、この文章が一番自分のために書いた文章だ。

いつか未来の自分が今の自分と再会した時に、この文章がよりくっきりと記憶を立ち上げるきっかけになってくれればと願う。

次の停車駅は新横浜だ。あの頃の夏とジブンは、置いてきたわけでなく自分の中にある。あの頃と地続きの今をまた今日から一緒に生きていく。






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