コンプレックスは僕の武器だ(10才)

10才の時に実家の階段の壁に書きつけた言葉だ。

おい何があった10才の俺。

なんで書いたのかは思い出せないが、書いたことははっきり覚えている。土壁っぽい材質だったから書くというより彫る感じだった。(以前実家に帰って確認しようとしたら消えてた)

コンプレックスという言葉を使ったのはちょっとカッコつけ成分が混じっている。覚えたての英語を使いたかった小4の背伸び感がうかがえていじらしいって自分のことだけど。

とはいえコンプレックスの意味はわかってたので卑下する気持ちが生まれる何かがあったんだろう。今も割とそうだけど昔から社交性は低いほうで、クラスの社交100%なメイトの「みんなひとつになろうよ」的なキラキラ感は眩しいけどちょっと疲れるから、社交3%くらいの友達と「アガサ・クリスティーの本のタイトルどちらが多く言えるかゲーム」を細々やるような子供だった。

今思うと何だそのゲーム。難しいっぽいことをすることで自尊心キープを図ったんだろうな。アガサ・クリスティーの中でも「今日はポワロの本で」「ミスマープルの本で」とさらに条件つけてやってたっけ。

話が逸れた。

そんな子供だから卑下タイミングは色々あったはずだ。そしてある時、卑下の閾値を超えて思わず壁に書いたんだろう。心のモヤモヤは文字にすることで少し晴れる。親に見つからないように目立たないところに書いたな。結局見つかってたと思うけど。我が子がそんな言葉書いたのを見つけてどんな気持ちだったんだろ。今更だけどごめん。

ただ今になって思うと結構いい言葉だと思う。自分で言うのもなんだけど。

CHAIってバンドが「コンプレックスはアートなり」って言ってて「小4の俺と同じだ…」と思って感慨深かったんだけど、誰でも日々感じるコンプレックスは溜め込むか昇華するかしかなくて、溜め込むとろくなことないからもちろん昇華した方がいい。

例えばそれを絵にしたり、文章にしたり、音楽にしたり、映像にしたり。

そうすることで「W昇華効果」が生まれる。消費財のCMみたいな言葉だけど。言いにくいし。

つまり自分のコンプレックスが昇華される+それを見たり聞いたり読んだりする人のコンプレックスも昇華方向に持っていけるということだ。

そして気持ちが昇華方向になった人が今度は自分で書く描く歌う撮るようになって、またW昇華効果が生まれる。

そう考えると実は文化ってコンプレックス産業なんじゃないか。言い過ぎか。でも少なくとも一部はそうだし、それで救われる人も少なくないはずだ。

だから小4の俺よ、君が感じて書きつけた通り、コンプレックスは武器であり、救いなんだ。間違ってないぞ、と言ってあげたい。

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