「みなもとかえらず」

ゆらり、ゆらん。

水面が揺れる。それは、何も見えない真っ暗な闇が、かろうじて水なのだとわかる瞬間。

川沿いのコンクリートでできた塀を降り、わずかな足場に腰掛けた。肌に触れる水が心地よかった。さらさらと流れていくのがわかる。

川の流れは穏やかだった。水に映った街灯の光が潤む。

私は何も考えずにこうしているのが好きだ。川と海の境目の、波打つ前の水面は安心して見ていられる。自分を守る隠れ家のようで。

夜風で髪がかき乱された。

「お姉ちゃん!」

あれ、また来たの。

上を見上げると、浴衣姿の幼い少女が顔を出していた。街灯に照らされた額が汗で光っている。下駄を履いた足で危なっかしく梯子を降りてきた。海が近いだけに、梯子は錆びてぎしぎしと音を立てる。彼女は、下駄を脱ぎ捨て、水に足を突っ込むようにして隣に腰掛けた。大きな音を立てて光が飛び散る。

「何で急にいなくなっちゃったの」

綿菓子でも食べていたのか、彼女からは甘い匂いがしていた。

「お祭り、楽しいのに」

 不満げに続ける。私は黙って空を見上げた。今日は月は出ていなかった。

私がここに越してきたのは二ヶ月ほど前のことだ。近所に住む彼女は、変わり者と噂される私に興味を持ったらしい。度々観察しに来たので、いつの間にか話すようになった。今日も夏祭りに誘われていたのだが、屋台を見て動けなくなってしまった。気分が悪かった。それでこっそり帰ってきたのだ。友達と黄色い声ではしゃぐ、彼女に水を差さないように。

私のことなんて忘れているかと思っていたのに。

「友達といた方が楽しいでしょ?」

「そういうことじゃないよ! ゆかはお姉ちゃんと一緒に行きたかったのに」

私が何も言わずにいると、彼女も黙って視線を追った。目の前を魚が横切っていく。音も無く。水面は微塵も揺らがなかった。

「ねえ、お姉ちゃん」

無愛想な私にめげずに話しかけてくる。それでいて何か察すると余計なことは言わない。この子のこういうところが好きだった。愛想が良く、賢いなんてイルカみたいだ。どこに行っても好かれるタイプ。私とは正反対だ。

「何?」

「ここってね、人魚がいたんだって」

「人魚?」

「うん。ここ、川なのにね。すごくきれいだったんだって。見た人が言ってたんだって」

「・・・・・・へえ」

人魚、ねえ。

視線を落とすと、もう魚の姿は消えていた。見捨てられた気分だ。

「お姉ちゃん、信じてないでしょ」

「うん」

「ひどいなあ」

「儒艮じゃない、それ。見間違えたのよ」

「じゅごんって何?」

「儒艮っていうのはね、海の動物の一つで、人魚とシルエットが似ているらしいの。人魚の伝説はほとんどが儒艮のことなのよ。とはいえ、儒艮はもっと気持ち悪い顔してるから、人とは全然違うけどね」

 姉たちが聞いたら、こんな幼い子にそんなこと言わないの、とたしなめられそうだ。空想ごっこだと思って合わせてあげればいいじゃない、とあの呆れたような顔をつけて。でも無理だった。怖がりな私は夢を見せられない。

「へえー・・・・・・でもこの辺の海にはいないよ」

「だから、迷い儒艮なんじゃない?」

「えー、そうかなあ。水族館にもいないのに?」

「ところでそれ、いつの話なの。二ヶ月くらい前のこと?」

「ううん、もっと最近のことだよ」

「え?」

「この前、美奈ちゃんちのパパから教えてもらったんだもん。仕事仲間が言ってたんだって。美奈ちゃんのお父さん、漁師さんだから」

「そ、そう」

「いつだったかなあ、この前遊んだときだからーー」

そのときだった。川岸に降りる階段から声がした。

「ゆか、何やってるの!」

彼女は肩をすくめる。いやだなあ、見つかっちゃった。そう呟いて、返事を返す。

「川を見てるのー!」

「いいから早く上がってきなさい!そんな汚い川・・・・・・」

彼女はごめんね、と目でこっちを見た。汚い川と言われると、私が気分を害するのを知っているのだ。大丈夫、と首を振る。

「それより早く帰りなさい」

心配かけてしまったようだから。というのは建前で、もう会えなくなるのが怖いから。彼女と会えなくなったら、もう人のことを知る術がない。周囲の中で唯一怖くない、私の友人。彼女がいたから、私は人間不信にならずに済んだ。

彼女は、素直に水から上がり、下駄を履き直した。またねーと笑顔で手を振り、ちょこまかと梯子を登っていく。その姿を後ろから見守る。彼女の下駄が梯子を踏み外しそうになる度に、自然と体に力が入る。

やっと登りきったことを確認し、水面の方に向き直った。きらりと何かが光った。光ではない。いや、光なのだが、水でないものに反射した光。何かつるりとしたものに反射した、わずかに硬い光。

その何かはまるでーー

巨大な魚の尾びれのようで。

冷たい手に臓器をつかまれた。胃がひっくり返る。最近やっと慣れてきた、肺に空気が入らなくなった。

いやだ、来ないで。私はもう、帰りたくない。だって暗い海の底は、ここ以上に息ができない。

身じろぎもできず、水面を祈るように見つめる。心臓だけが動いていた。だが、その一瞬以来謎の魚は姿を見せなかった。不意に咳が出た。なかなか止まらない。無意識に息を止めていたようだ。無理やり息を吸い、吐く。教えてもらった方法で。

やっと咳が止まると、薄く笑ってみた。余裕があるふりをしていたかった。誰かが見ているというわけではないけれど。

「まさか、ね」

声がかすれた。

 足を水から抜き、足場にまっすぐ立つ。冷たい水につけていたせいか、固い地を踏んだ感覚がない。まるで、水の中にいるようだった。

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?