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「処女を喪いたくない」はずなのに、誰かに抱かれたい【壱】

処女でなくなったら、わたしは一回死ぬんじゃないだろうか。こんなことを言ったら、25過ぎて何を言っているんだと思うかもしれない。好きなだけ笑えばいい。

「一回死ぬ」というのはわたしがよく使う比喩で、もちろん本気で死ぬとは思っていない。

「これまでとは全く違う人生が始まる」みたいな意味合いで、それは期待感というよりも「何かを喪うんじゃないか」という強い恐怖であり、諦めであり、覚悟と言った方が近い。

この強い気持ちを表す言葉を子どもの頃からいろいろ探して来たのだが、毎回「一回死ぬ」という言葉に落ち着いてきたのだった。

何かを喪う恐怖は昔から強かった

小学校の途中で転校するとき「一回死ぬんだ」と思っていた。これからは仲のいい友達と使っていた合言葉はもう使えない、これからは標準語で話さなきゃいけない、せっかく仲良くなった友達とはもう二度と遊べない。そんなことを考えていた。

高校入学時、1年のうち360日は練習があるような厳しい部活に入ると決めたとき「一回死ぬんだ」と思っていた。これからは毎日部活中心で生きなきゃいけない、帰り道にクレープ食べてカラオケ行くような憧れの女子高生は諦めなきゃいけない。そんなことを考えていた。

大学を出て社会人になる瞬間を迎える前日「一回死ぬんだ」と思っていた。これからはお金を稼がなきゃいけない、もうこの先に青春はない、学生の頃のように楽しいことも極端に少ないに違いない。そんなことを考えていた。

今振り返っても、なんてくそ真面目で、極端で、臆病だったのだろうと思う。

不安が全部的外れだったというわけではないが、結局、転校前の友達とは今でも仲が良いし、高校では部活をしながらアニメに熱中して友達とクレープを食べに行けたし、社会人になってからも充実したオタ活の傍ら友人や会社の同僚たちと20代なりの青春を謳歌していると思う。

喪うものもあるが、その空いたスペースには新しいものが芽生えるのだということ、そして、後悔するなんてことは滅多にないということを、わたしは小さな頃からたくさん経験してきたはずなのだ。

それなのに、処女だけは喪うことができない。

処女をあげたかもしれない人

大学生の頃、2年ほど付き合った恋人がいた。彼は、わたしの人生ではじめて、付き合って欲しいと告白してきてくれた人だった。

今だから正直に言うが、彼のことが好きだったかというと、はじめはそうでもなかった。嫌いではなかったし、趣味も近そうだったし、低い声は結構好みだったかもしれない。

なにより、中学のときに好きだった人の思い出をスルメみたいに噛みしめるしかなかった、部活中心の高校時代の恋愛ブランクを取り戻すためにも、恋人のひとりくらい欲しいと焦っていたのだった。

文章にしてみると最低だと思うけど、大学時代の交際のはじまりなんて、実際こんなもんじゃないのかと思う。

彼は優しかった。そしてわたしを大切にしてくれた。あの2年を振り返って、嫌なことをされた、なんてことはひとつもなかったと思う。

熱烈に好きという気持ちではなかったけど、彼といると居心地が良くて、穏やかであたたかな「好き」の気持ちがわたしの中に育っていくのに、そう時間はかからなかった。

身体の敗北、心の勝利

彼とは"初めて"をたくさん経験した。

手をつないで川べりを歩くこと。
クリスマスと誕生日に贈りものをすること。
ラブレターを書くこと。
一緒にキッチンで料理をすること。
付き合って3ヶ月、キスをしたこと。
それからしばらくして、大人のキスをしたこと。

夏のある日の夕方、暗くなりかけた部屋で、彼はわたしの心臓を撫でるようにして、優しく身体に触れた。そして、彼がキスそのままわたしの膝を、ほんの少しだけ強引に開こうとしたそのとき、わたしは泣いていた。

人前で滅多に泣かなかったわたしが、家族の前と布団の中でしか涙を流さなかった強がりのわたしが、ぼろぼろ泣いていた。

怖かったのではない。

「この人に、この身体の"初めて"をあげるのは、違う」と、そう思ってしまったのだ。

好きなはずの人に、そんなことを思ってしまう自分が、それでもそばにいたいなんて都合の良い、残酷なことを思ってしまう最低最悪な自分が、心底嫌になってしまって、涙になって溢れたのだった。

彼はわたしが泣いたのを見て、ひどく狼狽えていた。そして、怖がらせてしまったことを謝り、無理強いをするつもりはないこと、わたしの覚悟ができるまで待つことなど、必死に話してくれた。

わたしはそれを聞きながら、優しい優しい彼の胸にしがみついて、長い時間、嗚咽混じりに、子どもみたいに泣いていた。

あなたは何も悪くない、悪いのは、わたしなのだ。最低最悪で、恋人失格な、このわたしなのだ。ごめんなさい。悲しい気持ちにさせてしまって、ごめんなさい。

そして、もっと最低なことに、わたしは心のどこかで、「こんな自分がどうしようもなく、美しい」と考えていたのだった。

恋人失格

それから後も、彼とはよくキスをした。ときには胸に触られた。本当はどれも心地よかったけれど、戸惑うふりをして、それ以上の行為に及ぼうとすると、彼の肩の下をそっと押し返して意思を伝えた。腰や太ももに感じる硬いものには、気づかないふりをした。

ある日、女性経験がないことを友人たちから揶揄され、コンプレックスに感じていると、彼が漏らしたことがあった。完全にわたしの責任だった。死にたくなった。それでも、彼に初めてをあげようという気持ちにはなれなかったのだった。

そして、彼を初めて拒んでから1年後、わたしは彼からお別れを告げられた。身体のことが理由ではないんだよと、最後まで優しく話してくれた。

でも、わたしは知っていたのだ。彼の背後のキャビネットの一番下の段には、開封された避妊具の箱があることを。その銀色の箱の中身が少しずつ、減っているということも。

つづく。

(Photo by Annie Spratt on Unsplash)

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