見出し画像

統合失調症のあなたと私。

こんにちは!

実は先日、僕は
統合失調症」の親戚に
お会いする機会がありました。

あなたは統合失調症なるものを
ご存知でしょうか?

別名をスキゾフレニアというようです。

先日ご紹介したパラノとスキゾ
の話を思い出す方もいる
のではないでしょうか?

主に生活上のストレスによって
引き起こされる精神障害のことを
さすようです。

先日はスキゾを推し進めましたが
今回はその意味とは少し違います。

その親戚(以下おじさん)は
僕と会ったとき、異様な風貌でした。

おじさんの顔には
文字通り絶望の色が浮かんでいました。

どうやら統合失調症には
幻覚作用があるようで
おじさんにも"何か"が
見えているようです。

僕にはまるで何もないように思えた
病室の隅を指差して、「ひぃぃ」と
おじさんは確かに言いました。

誇示郎、早くあれをどけてくれ

と。

僕はうろたえました。

だって僕には何も見えないからです。

しかし、おじさんに
何もないよということを伝えると

バカ言え!グズグズするな!」

と怒鳴られるのです。

僕の周りにいる親族たちにも
"何か"は見えていないようで
彼らも一生懸命におじさんを
なだめていました。

しかしおじさんは
強くその存在を信じ、
涙目になりながら訴えるのです。

僕はそれを見ていて、
幻覚ってどんなものなんだろう?
と心から疑問に思いました。

幻覚はほぼ間違いなく、
人間が抱く「主観的事実」です。

僕や周りの人間には見えず、
おじさんにだけ見えているのだとしたら
おじさんの主観にのみ存在している
主観的事実」だと思います。

つまり、
確かに存在しているはずなのです。

それでいて存在していないのです。

正確には、おじさん以外の人間の
主観的事実ではない」のです。

これはどういうことなのでしょう?

これは面白いな、と思いました。

世には「エポケー」という概念が
存在します。

判断を保留するというような
意味を持つ言葉ではニュアンスは
さらに奥深いものです。

例を交えて説明するならば、
目の前にりんごがある、という状況が
実に簡潔でしょう。

りんごがあるという「客観的事実」を
確認するために我々はまず

りんごがあると認識している自分の
主観的事実」について
考慮する必要があります。

でもそれって、
どこまでいっても『「主観的事実」は
本当に"正しい"のか?』という問いに
ぶつかりませんか?

このあたりの判断保留を含意する言葉が
エポケーの本質的な部分です。

今回紹介した事例は
僕にとって多くの気づきのあるものでした。

エポケーに注目することで
様々な気づきがあったのです。

この事例は僕に反面教師的役割を
担う"事件"とも言える出来事でした。

僕はおじさんを見て素直に
こいつ何いってるんだ?
と思いました。

反感を承知で
自白します。

しかし僕の伝えたい部分は
決してそこではありません。

僕は「じゃあ自分は?」と
素直に考えました。

おじさんは僕に、人それぞれ
信じるものが違い、見える世界が違う
というとても大切な視座を与えてくれました。

自分自身の主張は聴衆にとって
このおじさんの主張のように
感じられていないか、ということです。

おじさんは"何か"の存在を
信じて疑いませんでした。

そのような「主観的事実」を
主張し続けていたのです。

でも、自分について考えれば
一概に他人事には考えて
いられないな、と思うわけです。

どういうことか?といえば、
僕だって、

その今見えているリンゴは
実際は存在しない虚像だよ

と言われたらそんなはずはない!と
主張するだろうな、と思ったのです。

お前にも見えてるやないかい!」

とつっこむかもしれません。

しかし大切なのはそこではありません。

つまるところ何を言いたいかというと
ある主観的事実にとらわれすぎて
頑固になってしまっていませんか?
ということに他なりません。

僕は他者との関係には
このエポケーが欠かせないと考えます。

相手には相手なりの
主観的事実があるわけで、
頭から否定して「議論を破壊」する
人が多いように感じるからです。

しかしそのような「口論」しかできない
人が増えている今、議論をするにおいて
相手の主観的事実をしっかり直視し
受け入れる姿勢は求められると思います。

本当の意味での「客観的事実」は
もはや誰にもわからないからこそ、
それに極限まで近づける努力が
求められるのではないでしょうか?

あなたの貴重なお時間で、僕の稚拙な文章をお読みいただき本当にありがとうございました。何か改善点、ご意見などおありでしたらお気軽にコメントいただければ幸いです。