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【小説】メルクリウスの喚声 第一話

【あらすじ】
結城竜也(ゆうき たつや)は、実力はあるが運に見放された漫画原作者。ある日、竜也と同棲している野村容子が、勤務先の大学教授・首藤薫(すどう かおる)から神秘思想に関する本を借りてきた。本の隙間には両性具有の人間の絵が描かれたカードが挟まれていた。その絵に奇妙な魅力を感じた竜也は、ひそかに自分のものにする。後日、首藤と出会った竜也は「メルクリウス」という聖なる存在を教えられる。あらゆる矛盾を和解させる媒介であり、錬金術も可能となるという……。半信半疑だった竜也だが、その日から人生が一変する。


   Ⅰ 異形の天使

 陽が翳りはじめている。四月といっても日照時間はさほど長く感じられない。近所の小学校から下校する子どもたちの声も聞こえなくなっていた。
 電話は一向に鳴らない。今日ばかりは、三度のメシよりも好きな雀荘にも行かず、ボロアパートの一室でひたすら連絡を待っていた。
 カンカンカン……と室外の鉄骨階段を駆け上がってくる履物の音がした。直後に玄関のドアが開いて、野村容子が飛びこんできた。殺風景なアパートの一室が不意に明るくなる。
「遅くなってごめん! どうだった!?」
「まだだ」
 結城竜也は両腕で抱いた膝に顎を乗せていた。昼すぎから、ずっとこの姿勢でいる。
「そっか……」
 容子は布団の掛かっていない炬燵台を挟んで、竜也の正面に坐った。
 その手には、大小二つの紙袋があった。出かけるときには持っていなかったものだ。
「なんだ、それ」
 気を紛らすため、どうでもいいと思いつつも訊いた。
 その尖った声を掻き消すように、炬燵台の上に置いていた竜也の折り畳み式の携帯電話が鳴った。二人のあいだに緊張が走る。ワンコール目が鳴りやまないうちに、竜也は携帯を耳に宛がった。
「お世話になっております、Z出版の高塩です」
 第三制作部所属の担当編集者だ。
「結果は、どうでしたか!?」
「ダメでした」
 竜也は耳を疑った。
「高塩さん、受賞は間違いないって――」
「じつは、ある先生がですね、うちの雑誌でギャンブル漫画の連載をはじめるんですよ。来月の四週に発売される号からスタートするんですが」
「それと、なんの関係が?」
「結城さんの作品もギャンブル漫画の原作だったでしょ。今回の賞でグランプリを獲った作品は漫画化されて掲載確定ですから、同じ雑誌にギャンブル漫画が二つも載るのは、まずいんですよ」
「そんな、いまさら」
 頭の中が真っ白になった。
「こちらの確認不足でして」高塩は淡々といった。「ちなみに、今回は受賞作なしになりました。それだけ結城さん以外に目ぼしい人がいなかったってことですよ。来年まで賞はありませんけど、別の切り口で、これは、と思う原稿が書けたときは読ませてもらいます」
 声が出ない。電話は一方的に切られた。
「くそっ、あの野郎!」竜也は携帯を握りしめた。「ボンクラ編集者め、話が違うじゃねえか」
「どうしたの?」
「落とされた」
「……今回は、運が悪かっただけよ」
「ずっとこの調子じゃないか」
「でも竜也さん、いままでに何度も原作を採ってもらってるし……次は、きっとうまくいくよ」
「何度か原作を採ってもらってるレベルの原作者なんて、ごまんといるんだよ」
 怒りを誰にぶつけていいか、わからない。
「ぬか喜びさせやがって」
「……何が足りなかったのかしらね」
 竜也は新人の漫画原作者だ。絵はうまいのにストーリーがつくれないという漫画家のために、漫画の脚本を提供する仕事である。
 これまでに一話完結の読み切り漫画の原作を何本か手がけてきた。連載を持ったことがないので、世間的にはまだプロとはいえない。竜也本人は原作者としての実力は充分にあると思っている。あと一歩のところで幸運の女神が微笑んでくれないのだと。
 ――予定していた漫画家の都合がつかなくなって、没になる。担当者が代わって、すでに採用されていた作品が没になる。連載まで見込めた原作が、無能な漫画家の手に渡って駄作になる。念願の連載が決まった翌月に、掲載雑誌が廃刊になる――。
 その場でおおよその結果がわかる〝持ち込み原稿〟に頼ってきた竜也は、新人賞に挑戦すべきだと大手出版社の編集者に勧められ、Z出版が主催する〝漫画革命賞〟に原稿を送った。原作部門に応募した作品が最終選考まで残り、担当編集者の高塩からも「受賞は堅い」とお墨つきをもらった。いよいよビッグタイトル獲得と同時に原作者としての未来が拓けると、期待に胸を膨らませていたが――。
「蓋をあけてみりゃ、このザマだ」
 竜也の愚痴は続いていた。容子に当り散らす、女々しい自分に嫌気が差してくる。終わったことは仕方ないと諦め、頭の中からネガティブな思考を排除しなくては前に進めない。
「それは、何?」
 容子が持って帰ってきた紙袋に目を転じた。
「本を借りてきたのよ」
 容子は大きいほうの紙袋から、数冊の立派な古書を机の上に出した。
「大学の図書館で借りたのか」
「教授から借りたんだけど……ちょっと借りすぎちゃった。大切になさってる本だから、明日には返さなきゃいけないの」
 容子は神戸にある有名私立大学を今春卒業したが、就職に失敗した。親に合わせる顔がないといって実家に帰ることもせず、いまは大学に残って教授の助手のアルバイトをしている。
「妖しげな本ばかりだな――」
 竜也は眉をひそめた。占星学、カバラ、タロット、神秘思想――といったタイトルが並んでいる。
「容子って専攻はなんだったっけ」
「人間科学科だよ」
「こんな魔術的なものを研究する学科なのか」
 容子はストレートの髪を片方の耳にかき上げながら、
「こういう分野は授業では扱ってないわ」
「教授の趣味か」
 一冊手に取って、ページを開く。タイトルは『錬金術』――最初のページから「第一質料」だの「大いなる作業」だの、取っつきにくい言葉が小さい文字でびっしりと詰めこまれていた。
 すぐに読む気を失って、本から視線を上げた。
「もう一つの紙袋は――?」
 小さいほうの紙袋が、まだ炬燵台の下に隠れるようにして置かれている。
「ごめんなさい!」
 容子は深々と頭を下げた。シャンプーの香りが漂う。
「なんで謝るんだよ」
 理由もなく、ムッとする。
「ケーキを、買っちゃったの……今日、お祝いできるかと思って……」
「そうか……」竜也はバツが悪くなった。「落選祝いに喰おうか」
 容子は顔を上げて、微笑んだ。どうして、こんな可愛い子が自分のような稼ぎのない男と一緒に暮らしてくれるのか。
「じゃあ、晩ごはんの準備するね」
 容子はエプロンを身にまとい、台所で料理をはじめた。
 彼女の献身的な後ろ姿を、竜也は申し訳ない気持ちで見つめる。リズミカルな包丁の音が胸に染みる。
(容子のためにも、次の原作を書かなければ――)
 開いていた『錬金術』を勢いよく閉じると、ページの隙間から紙切れが一枚、滑り落ちた。
「……なんだ、これ」
 カードサイズの毛羽立った厚紙に、奇妙な白黒の絵が印刷されていた。
 異形の人間が、丘の上に立っている。頭が二つあり、それぞれ男の顔と女の顔をしている。下半身にも両方の性器が備わっていた。
 物音が消える。
「どうしたの、竜也さん」
 容子が台所から顔を覗かせる。竜也は絵札を手のひらで隠した。
「なんでもないよ」
 見てはならないものを見てしまった気がした。
 容子が流し台に向き直ったので、竜也はあらためて厚紙に目を凝らした。なぜか焦点が合わず、輪郭が霞んで見えない。瞬きをする。両性具有の像は見つめるほど明瞭になり、刺激が増し、竜也に迫ってくる。
(なんだろう、この絵は――)
 台所から、肉を焼く匂いが漂ってくる。ほんの一瞬、肉を買う金をどうしたのかと考えた。すぐにどうでもいいと思った。日ごろ食の細い竜也が、肉汁の匂いに誘われ、強い空腹感を覚えた。
 竜也は絵札を本の中に戻さず、ポケットに突っこんでいた。

 目醒めたのは午後一時だった。容子はとっくにアパートを出て、神戸の岡本にある大学に出かけたようだ。
 竜也は洗面所で顔を洗いながら、ともすると萎えそうになる心を奮い立たせた。
「ギャンブルはやめて、家で原稿を書こう」
 しかし、新しいネタを思いつく自信がない。どうすれば斬新な発想が閃くのか。プロの作家は自分なりの方法でアイデアを生みだすコツを掴んでいるのだろう。ギャンブルに夢中になっているときのような高揚感が、書くことでは得られない。机に向かって呻吟している時間のほうが圧倒的に多い。
「おれには才能がある……頑張れば、やれる」
 どんなに自分を鼓舞しても、目の前には立ちはだかる壁があって、どうあがいても壊せないし、乗り越えられもしない気がする。潜在意識に働きかければ何事も叶うとハウツー本には書いてあるが、あれは嘘だと近ごろでは思っている。
「くそっ――」
 凡人は死ぬほどの努力をしても報われないと、諦めているのかもしれない。
 洗面所から居間に戻る際、玄関の下駄箱の上に見覚えのある紙袋があることに気づいた。中身は容子が昨日借りてきた古書だ。
 携帯が鳴った。容子からの電話だ。
「いま、大丈夫?」
「どうしたんだ、授業中じゃないのか」
「玄関に、本が入った紙袋が置いてなかった?」
「ああ……あったよ」
「今日返さないといけないの。竜也さん、もしよかったら、届けてくれないかしら……」
「いいよ。気分転換に外に出ようと思ってたところだったんだ」
「ごめんね……一時間半後にはゼミの授業がはじまるから――」
「すぐに行くよ」
 紙袋をぶらさげて外に出た。
 強い風が吹けば倒れてしまいそうなアパートや家屋が密集している住宅地を抜けて、中津浜線を横切り、ゆるやかな坂を登っていくと、駅が見えてくる。あたりには一杯飲み屋が軒を並べていて、昼間から賑わっている店もある。店先の排水溝に向かって嘔吐している薄汚い恰好をした男に、眉をひそめる者などいない。世間では歌劇の街として知られている宝塚市内だが、この地域は夢や希望とは無縁だ。世の中では爪弾きに遭う者たちが住む、吹き溜まりのような一画に、竜也は居住している。
 私鉄電車を乗り継ぐこと三十分、神戸の岡本駅に到着した。豪邸が建ちならぶ高級住宅街を抜け、桜の花の散り敷く並木道に出た。眼前に総和大学の校舎がそびえている。
 学生が行き来する校門の前で、容子が小さく手を振っていた。
「間に合ったか?」
「大丈夫。わざわざごめんね――重かったでしょ?」
「たいしたことないよ」
 紙袋を手渡した。
「もう行かなきゃいけないの」
「いいよ。おれは帰るから」
「本当にありがとう。終わったら、私もすぐに帰るからね」
 名残惜しそうに、容子が文学部校舎に戻ろうとした。
「容子」
「……なあに?」
「その本は、読んだのか」
「ううん。全然読めなくて。教授に怒られちゃうかも」
 容子がいなくなったあとも、その場でしばらく、竜也は立ち尽くした。
(こいつを盗んだのはバレてないな――)
 ポケットに手を突っこんで、一枚のカード――『両性具有』を取り出した。天使か悪魔か、キリスト教の世界では、悪魔が醜いフリークとするなら、天使は美しいフリークとして存在し続けた。
 不可思議な絵だ。美醜のどちらにも分類できない。直視するのも憚られる。いっそ捨ててしまおうと思ったが、カードを持つ手が震えて、指がエビのように曲がって動かない。名状しがたい魅力を放出していて、竜也の胸底でうごめく邪な心を捕らえて離そうとしない。
 目に見えない磁気に感応するように、六階の「人間科学科」専門フロアに向かった。
 エレベーターホールを抜けると、長い廊下が目の前に伸びていた。人の気配はない。左右の壁に、扉がずらりと並んでいる。
 足音が吸いこまれるカーペットの敷かれた廊下を進んでいくと、左側の一つの扉の奥から微かに人の声が聞こえた。扉に嵌めこまれた小窓から室内を覗いた。着席した大勢の学生たちを前にして、容子が授業を行なっていた。
(――どこが雑用係だよ。立派な先生じゃないか)
 欺かれたような思いに駆られていると、
「遅刻ですか」
 背後から声をかけられた。驚いて振り向く。
 綿毛のようなふわふわした長い髪が、蝋のように白い顔を縁どり、なだらかな線を描く肩にまで達している。女性だと紹介されればそのように見えるし、仕立てのいい男物のスーツと化粧気のない無表情な顔を見れば男性である可能性も否定できない。
「い、いや……おれ、学生じゃないんです」
 思わず目を伏せた。
「貴方は、結城竜也さんでしょう?」
 アルトの穏やかな声と口調で、名前をいい当てられた。竜也は踏み出した足を気づくと止めていた。
「ちょうどよかった」薄い唇がわずかに開き、言葉が発せられる。「一度、お会いしてみたかったのです。お話をしませんか」
 彼あるいは彼女の能面のような顔を、竜也は舐めるように見つめた。
「こちらへどうぞ」
 ほっそりとした手が廊下の先を指差し、二人は奥へと進んでいった。どこに飛び立つかわからないような性別不明の相手は最奥の扉を開けて、竜也を招じ入れる。扉の脇には「首藤薫 教授 研究室」と印字されたプレートが掲げてあった。
「首藤……教授? もしかして容子の――」
「野村容子さんには、いつも手伝ってもらっています」
 研究室内は、壁面全体が書棚で覆われていた。絨毯の敷かれた部屋の中央には濃い紫色の布製ソファがあり、オーク材のテーブルの上には蘭の植木鉢が置かれている。書籍はきちんと棚におさめられていて、整理整頓されている。
「お掛けください」
 いわれるがままに竜也はソファに坐る。部屋の隅で、首藤が茶の準備をはじめた。
 容子の話によれば、首藤は男である。
(カードの持ち主は、この人かもしれない――)
 首藤は紅茶の入ったカップをテーブルに置くと、自分はデスクの椅子を廻転させて腰を下ろした。そして紅茶を飲みながら、竜也に微笑みかけた。皺一つない張りのある肌をしている。年齢が読めない。
「野村さんから、結城さんのお噂はうかがっておりました。劇画の原作者としてご活躍されているのですね」
 彼の胸元が、きらりと光った。トップが六芒星の形をした、銀色のペンダントが襟元に見える。一見なんの変哲もないアクセサリーに、竜也の視線は惹きつけられる。
「唐突なお願いになりますが――」
 六芒星に目を奪われていた竜也は、ハッとして顔を上げた。
「結城さんに、私のゼミの臨時講師をお願いしたいのです。いかがでしょう」
「臨時講師? おれが――?」
 首藤は無言でうなずく。
「……僕じゃ力不足ですよ。まだアマチュアですし、なんたって、この大学を中退してるんですから」
 カップを受け皿に戻しながら、なぜ卒業しなかったのかと今さらながら悔やまれた。
 竜也は長崎の外海地区出身である。現在でも尚、隠れキリシタンの信仰様式が残っていることで知られる土地だ。兵庫に出てきて、総和大学の経済学部に入学したが、雀荘通いにハマり、授業に出なくなった。そんなとき、暇つぶしに書いたギャンブル漫画の原作が出版社の編集者に評価された。竜也の人生はそれから大きく変わった。
「学歴なんて臆病者が欲しがるものです。かくいう私も中卒です」
 首藤の言葉に、竜也は救われた気持ちになったが、
「僕が書いてるのはギャンブル漫画の原作で――結構マニアックなジャンルなんです。きっと、なんの参考にもなりませんよ」
 学生を前にして自分の経験知を伝えている姿なんて想像もつかない。
「残念です」
 意外にあっさりと彼は引きさがった。ホッとしたが、惜しい気持ちもあった。
「賭博には興味深い歴史があります。古代錬金術を源泉として生まれたものが賭博ですからね」
「……知りませんでした」
 首藤は不思議そうに小首を傾げる。
「たとえば賭博に最も用いられる道具であるトランプ――あれの前身がタロットカードであることはご存知でしょうか」
「タロットカード……?」
「タロットはバラバラに分散された、一冊の秘伝書なのです。キリスト教に迫害されたエレウシス密儀の祭司たちが、苦肉の策として、錬金術の伝承をジプシー――現代ではロマと呼ばれていますが――彼らに託しました。これは見事なカムフラージュでした。まさか誰も、流浪の民が錬金術の伝達者だとは思いませんからね。ロマの手によってタロットは占卜や遊戯として広まっていったのですよ。錬金術そのものの起源は紀元前十五世紀にまで遡ります。いまから三千五百年前ですね。古代文明が発生した当初から、人々は黄金の価値を認めていたようですね」
 竜也はいままでギャンブルに携わっていながら、その歴史まで調べたことはない。
「麻雀も……錬金術が関係しているんですか?」
「そうです」
「一見、そうは思えませんが……」
「私は麻雀をやりませんが、一つひとつの牌に彫られた神秘的な図柄には興味を覚えました――」首藤は言葉を続ける。「得点が一番高くなる役があるでしょう」
「〝役満〟のことですか」
「それです。役満の中には、あの七つの字牌と関係した役が多いと思ったのです。やはり字牌が、麻雀では神聖なものとして扱われているのでしょうね」
「字牌を切らないっていう宗教までありますからね」
 首藤は納得したように微笑した。
「字牌の中でも〝大三元〟という美しい役を構成する、三つの字牌がありますね」
「白、發、中……三元牌といいます」
「七つの聖なる字牌の中でも、とりわけ三つの字牌が神格化されている。これは錬金術に通じます。錬金術では主要な七つの惑星のうち、太陽と月と金星が特に崇められているのです」
 首藤は言葉を継いで、
「一から九までの数字を表す牌が三種類ありますね。萬子、筒子、索子でしたか。なぜか索子の一の牌にだけ、一を表す絵ではなく、〝孔雀〟が描かれている。孔雀というのは錬金術における虹色の変容段階を意味する、重要なシンボルなのです」
「孔雀に、そんな意味が……?」
「他にも、筒子は十二宮模様にも見えるし、車輪と捉えれば薔薇十字のシンボルそのものにもなる――」
 麻雀に関しては素人の追随を許さないと自負していた竜也も、はじめて耳にする話だった。
「あらゆるギャンブルの起源は錬金術にあるんですか? サイコロも、花札も……」
「賭博に限らず、錬金術に関係していないものなど、この世に存在しませんよ」
 竜也は息を呑んだ。
「教授は、錬金術に詳しいのでしょうね」
「詳しいも無知もありませんよ。みずからの手で実行すればいいだけのことです」
「実行って……本当に〝金〟をつくるんですか? いろんな金属を配合して、完璧な金をつくり出そうとすることですよね、錬金術って」
 首藤は微笑した。肯定しているように、竜也の目には映った。
 黄金=金さえ手に入れば、人生は思いのままになる。言葉に責任を持たない編集者の顔色をうかがうこともない。あり余る財力で漫画家を雇い、思いのままのストーリーで描かせ、出版すればいいのだから。そこまで考えるとありえない空想に耽ることが急に馬鹿らしくなって、ソファの背もたれに頭部を預けた。
 天井が視界に入り、一驚した。
 並列した蛍光灯の周辺に、異形の天使像が何体も描かれていた。頭が二つある彼らは全裸であり、背中には翼が生えていた。そして股間には性器が二つ――それぞれ男と女のものがあった。竜也がポケットに忍ばせている『両性具有』の絵と同じ構図だ。
「気に入っていただけましたか」
 首藤は竜也がうなずくものと信じて疑わない口ぶりでいった。
 心を見透された竜也は慌てて頭を起こした。首藤の美しい顔の裏側に、ふた目と見られない醜悪な顔が隠されているように思えた。
「……なんですか、これは」
 竜也は動揺を悟られたくなかった。
「寓意画です」
「ぐういが……?」
「錬金術を具現しています」
 もう一度、天井を見上げた。この絵と錬金術のあいだには、どのような関係があるのだろう……。
「そういえば――」
 天井の寓意画を凝視しているうちに、あるものを連想した。
「これと似たような姿をした神が、いましたよね」
 過去に漫画か何かで読んだ、おぼろげな記憶を辿りながら、
「大きな翼が生えていて、両性具有で……でも頭だけは人間じゃなくて、山羊だったような……」
「バフォメットのことですか」
 首藤が弓形の眉をぴくりと動かした。
「確か、そんな名前でした」
「それは神ではありません。黒魔術において崇拝される、汚らわしい悪魔ですよ」
「そうだったんですか……。門外漢が知ったかぶりをして、すみません」
「謝る必要はありません。我々にとっては、無関係であるというだけです」
「我々――?」
「貴方も私と同じく、錬金術を求めているようですね」
 彼はちらりと室内の時計を見た。そして籐の廻転椅子から立ち上がった。
「では、これで――」
「待ってください」竜也もソファから腰を浮かせた。「もっと詳しくお話を聞かせてください――」
 そのとき、ドアがノックされた。首藤が返事をする。入ってきたのは容子だった。
「竜也さん、どうしてここに――?」
 竜也は首藤の顔をうかがってから、
「臨時講師のことで――ちょっと」
「えっ! 竜也……結城さんを、臨時講師に、ですか」
 容子は首藤に問いかけた。
「まだ、ちゃんとしたお話はできていないのです。後日あらためて相談しましょう――」
 講義が控えているらしい首藤は、容子と竜也に別れを告げると、足早に研究室を出ていった。どうすれば、もっと首藤と話せるのだろう。竜也は首藤の残り香を嗅ぐように、大きく息を吸った。

 薄闇の迫る駅までの道を、二人は寄り添って歩いた。
「びっくりしちゃった。お客さんかな、って思ったら、竜也さんだったんだもの」
「おれのこと、教授に喋ってたの?」
「ゼミのオリエンテーションで、余計なことをいろいろ話しちゃって……ごめんね」
「謝ることはないけどさ。何気にうろついてたら、いきなり声をかけられて、ついでに研究室に連れていかれて――焦ったよ」
 容子は苦笑した。
「あの人、ちょっと変わってるからなあ」
 あの人、という呼び方に、竜也はジェラシーを覚えた。
「なんだよ、あの天井の絵は。あんなの、正気の人間は描かないぜ」
「変わってるわよね」
「錬金術に関係した絵だっていってたけど……ナニいってんだか、わかんねぇーつうの」
「私もあの絵のこと、訊いたことあるんだけど――」
「なんていってた?」
「物質であると同時に非物質である、曖昧な存在に人類は進化しつつあるのかもしれないっていってたわよ。なんのことだか、ゼーンゼンわかんないけどね」
 求めている答えの重大なヒントを与えられているような気がした。容子にもっと首藤のことを聞き出そうと思ったが、やめておいた。これ以上深入りしていくのは危険だと心の声が聞こえた。見てくれも中身も〝ちょっと変わってる人〟で片づけよう――ギャンブル好きの竜也は、五感以外の何かを感じ取る心の働きを信じていた。
 駅に着いた二人は電車に乗りこんで、つり革に掴まった。
「でも、すごいよな、容子。ただの助手なんかじゃなかったんだな」
「どうして?」
「容子が授業やってるとこ、覗き見してたんだ。そしたら教授に捕まったんだ」
「そうだったの!」
「普段と違う感じで、恰好よかったなあ」
 容子は何度も首を横に振った。頬を赤らめて、
「私なんて、テキストを読み上げてるだけなのよ。でもね、慣れてないから、それだけでも一杯いっぱいなんだよ」
「なんで教授は授業をしないんだ」
「他の仕事で忙しいみたい。だから、これからは学外の先生もどんどん呼ぶ予定なんですって」
「それで、おれを臨時講師に――ってわけか」
「引き受けるの?」
「たぶん、断るよ」
「無理することないからね。なんだったら、私が代わりに断っておくわ」
「ん、ちょっと待ってくれ――」
 竜也の携帯が振動していた。
「Z出版からだ」
「原稿のお返事?」
「何も預けてないはずだが――」竜也は頭を捻った。「とりあえず電話に出てみるよ」
「あ、車内ではダメだよ。次の駅で降りて、かけ直そうよ」
 電車が停止し、ホームに降りた竜也は折り返しの電話を入れた。
「結城さんですか! 大変なことになりましたよ!」
 電話口の高塩の声は、いつもと違って溌剌としていた。
「どうしたんですか」
「結城さんの作品、最終選考で落としたでしょう。某先生のギャンブル漫画が、連載を控えてるからって。でもそれが、その先生のスケジュールの都合で、キャンセルになったんですよ!」
「……はあ?」
「漫画革命賞のグランプリ、結城さんの受賞で今度こそ決定です。いやあ、結果発表前だったので、ギリギリセーフです」
「なんですって!?」
「正真正銘のグランプリ受賞ですよ。おめでとうございます」
「ほ、本当ですか」
「金輪際、変更はありませんので安心してください」明るい笑い声が聞こえる。「取り急ぎの報告なので、今後のスケジュールについては詳細がわかり次第、追って連絡します」
 電話が切れた。少し離れた場所で待っていた容子が近寄ってくる。
「なんの電話だったの?」
「漫画家のスケジュールがどうたらこうたらで、こないだの漫画革命賞、おれが受賞することになったみたいだ。今度こそ間違いないってさ」
「えっ?」
「高塩のやつ、いつもは無愛想なクセに、今日はヤケに張り切ってたな。まァ、担当した作家が結果を出したんだから、編集者としての株も上がるんだろうからな。ゲンキンなやつだぜ」
「本当なの?」
 竜也は頬を指でつねってみた。
「どうやら、夢じゃないみたいだ」
「やったあ――」
 爪先立って竜也に抱きついた彼女は人前であることを思い出したらしく、背中に廻した腕を解いて、右手を差し出した。
「いままでの苦労が報われたわね」
 容子は目を潤ませて、竜也の手を握り、揺さぶるように上下に振った。
「おかしな具合だよな。馬鹿にされた気分だよ」
 竜也がそっけなくいうと、容子は竜也の顔を見上げた。
「どうしたの……? 元気ないよ」
 竜也の脳裏には、首藤の美しい顔が浮かんでいた。彼は神に最も愛された堕天使なのか、それとも群れをなして天界を羽ばたく異形の天使の一人なのか――。
「実感が湧かないんだ」
「私は来るべきものが来たって感じかな」
「嘘だろ?」
「とびきり美味しいお祝いのケーキ、買って帰ろうね」
 ホームにアナウンスが流れる。容子は電車に乗ってからも興奮が醒めないのか、竜也の手を固く握りしめた。


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