先日、高校の時の友達(K)にパートナーができました、恋愛系の。
おめでとう!
しかし羨望の眼差しを向けているのはKにではありません。
Kは家が月島のタワマンで顔は整っていて性格もユーモアがあって優しい優良物件です。Kにパートナーがいるのは何も不思議なことではないので羨望も嫉妬も湧いてきません。では羨望の眼差しの矛先はそんな優良物件のKをゲットしたパートナーに対してでしょうか。答えは部分的にそう、です。羨む理由はKの素晴らしさではなく付き合う経緯にあります。

Kのパートナー、最近できたのでてっきり大学で知り合った人かと思っていましたが、高校の同級生でした。高校時代からパートナー(M)がKのことを好きなことはたくさんの人が知っていて、私もその一人でした。しかしKはMのことを好きなタイプではないので今もこれからも「なし」だとよく言っていました。それを知らされてもなおMはめげずにKに対して積極的な態度をとっていました。そんなMを私は勝手に自分の鏡写しのように感じていました。というのも実は私も当時好きな人がいてその人から「なし」という評価をもらっていたのです。そのことから「なし」という評価に私は関心があったので「なし」とはどんなものかKに聞き、聞くたびに自分の立ち位置に絶望していました。「なし」に絶望しアクションを起こさない私。「なし」にめげずアクションを起こすM。ゆえに私は勝手にMを自分の鏡写しにと捉えていました。それだけでなく私は自分を正当化するために心のどこかでMを無駄な努力をするみじめな人とみなしていました。全くひどい話です。
最終的に高校卒業までにKの気持ちは変わることがなく私の正当化は正当のまま終わるはずでした。しかし現実はどうなったでしょう。最初に書いたようにMはKと付き合うことになりました。私の考えはまごうことなく不当と証明されたのです。思えばそもそも正当なわけがありません。好きな人にアクションを起こすことが正当なのは自明です。Mは卒業という枠にとらわれずに決して無駄ではない努力を続けたのでしょう。素直にやったね!と褒められるほど私の性格はできたものではないので、ただただ羨望の眼差しを向けるほかありません。結局私は私の消極的な態度の言い訳をしていたのだと気付かされました。いや気付いていたけれど認めたくなかったのかもしれません。

「失って気付く後悔くらい失う前から気付いてた」
           ずっと真夜中でいいのに。「こんなこと騒動」より

今、私はもし私もあの時から積極的な態度をとっていればとそれこそ無駄なことをしつつ、好きだった人のLINEアイコンを見て理想化され神格化された好きだった人に似ている”何か”を追い求めながら、異性どころか同性に対しても大したアクションを起こさずに、モノクロな大学生活を送っているのでした。



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