出会いって奇跡ですよねはいはいはい

タイトルは、この3年ほど嵌まっている長澤知之さんの歌、
「センチメンタル・フリーク」から。

いま、検索してみたけれどやっぱりyoutubeには上がっていないですね。残念・・・


「休みの日にはベッドの上で 起きてんだか寝てんだかの中

秒針につつかれながら悶々と

やっつけっぽく心臓が鳴る 3分間で済みそうな生活

出会いって奇跡ですよね はいはいはい」

「ただ会いたい人はどこにもいない

あんたでもない あんたでもない

僕のための奇跡じゃない

構わない 構わない」


ごく一部を書き出しました。


自堕落だったり、虚無的だったり、厭世観だったり、静かな怒りだったり、

いろんなマイナスの気配に満ちている歌なのに、なんだか結構好きな曲なのです。

* * * * * *

個人的に、「引っ張られやすい」人間だと思っているので、気分が落ち込みそうなものや、深く内面をえぐるような内容の本や映画や歌はなるべく関わらないようにしてきました。惹かれる気持ちもなくはないけど、自分のテンションが明らかに下がり、日常生活に支障を来すのがわかりきっているから(苦笑)。それらに積極的に触れているひとたちは、どうやって「日常」を生きているのか本気で知りたいくらいです。仕事に支障ないの?家族や友人との会話がギスギスしたりしないの??と。

女性アーティストだと特に、「避けておこうセンサー」が働くから、数名の方の曲とかあえてもう聴かないことにしているくらい。

そういう今までの、「自分基準」で考えれば、長澤知之というアーティストを、最初は毛嫌いしていたことも説明がつく、のです。

でも、それはほんっとーーに、ただの「毛嫌い」で「浅はかな排除」でしかなかったと、3年前に気がつくキッカケがあって、そこからはもう、とにかくとにかく自分が勝手に厚塗りしていた壁を壊しまくるかのごとく、聴いて聴いて聴きまくっています。

曲そのものにしても、インタビューにしても、そして何より、ご本人が綴るブログの文章などを読んでいても、「あぁ、このひとは、『正しく』怒っているのだな」とわかるから。あるいは、「『真摯』に悲しんでいるのだな」とわかるから。理不尽なことごとに目を瞑らず、ちゃんと消化してることが伝わってくる。そして、その表現にきちんと、愛があることに気がついてしまったら、もう応援したい気持ちしかない。長いこと勝手に毛嫌いしていた自分、ほんとうに莫迦だったよね、時間を無駄にしたよね、と怒りたい。もっと前から、長澤君の愛を受け取りながら日常生活を送っていたら、あの出来事やこの出来事も、もう少し平静に受け止められたかもしれなかったのに!と。怒りも悲しみも、もう少しスムーズに消化出来てたかもしれないのに!!と。

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今まで生きてきた中で、ほんとうに「奇跡的」と思える出逢いもたくさんあった。あまりにも興奮して、幸せで、大事にしたくて、その想いを相手に知って欲しくて。奇跡だと感じていることを、そう言葉に出したこともあった。もっとずっと、若かったときのことですが。それはそれで、微笑ましい思い出とすることも出来るけれど、なんというか、今はもう、云えないかもしれない(苦笑)。思ったとしても、相手には云えない。

そしてもちろん、第三者に「出会いって奇跡ですよね」なんて、もっと云えない、今となっては。

なんといえばいいのか、「出会い」が「奇跡」なのは当たり前であって、ほんとうはほぼすべての関わりが「奇跡」なのだろうし・・・なんて「そもそも論」はもちろん、

単純にそんな「胡散臭いこと」を言葉にするのがはばかられる、というのもあるし、

自分がどんなに相手に肩入れしていたって、同じように相手から思われることは少ない、それなのに「奇跡」だなんてさも共通認識のように重たいコトバを持ち出して迫るのは潔くない、とか

いろんな想いが働いて、もう、奇跡という大仰なコトバを自分以外のココロとカラダを持った人間に対して、自分基準で押しつけられなくなってしまった。

「大事に想う気持ち」は何らかの方法で伝えたいけれど、もっとそっと、表現を選ぶべきだ、と思うほど、すっかり年を重ねてしまったのが、たまに少し寂しい(笑)。そして、自分がそんなだから、相手からごくたまに発せられる「奇跡ですよね!」にも、ちょっぴり困惑するようになってしまった。

いや、もちろん、ほんとうの意味では、ちゃんと、まさに、奇跡以外の何物でもないですよ。うん。わかってる。そんなふうに云ってもらえて、嬉しい。はず。いや、実際、嬉しい。でも、同じように返せるかな。想ってるだけじゃ、ダメでしょうか。


* * * * *

自分が出逢いたいと思い描くような理想の「出会い」が、こんなところには転がっていない、だったら「そういう世界」に身を置かなくてはいけないのに、「こんなところ」からすらも、出て行けない焦りのようなものを、この長澤君の曲から感じる一方で、結局のところ、「場所」でも「人」でもなく、「自分自身の胡散臭さ」やら「自己満足」に気がついてしまったら、どうにも動きようがないんだな、としみじみと思う。そういうものにじっくり対峙する瞬間って、必ずやってくるのですよね。斜に構えてるなんていう表面的なポースとは別の次元で。その嵐のような気づきを、当たり前過ぎる熱を、どう抱えて生きてゆくのか、時々は立ち止まって真剣に考えてみる、そんなときにも、長澤君が寄り添ってくれているような気持ちになります。

長澤君と出会えたことが奇跡なんじゃない、

長澤君がいまこの時に、生きていて、こうして歌い続けてくれてることが、奇跡なのです、って、思うけれど、そんなこと、もしご本人に会えても云わないよ、きっと。




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