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” おわり ” を受け入れるところから、 地球と人のしあわせが はじまる

先日フェイスブックにて、とてもとっても良い記事を見つけたのでシェアしました!!

コレ↓↓↓


ただ丁寧に生活することがマインドフルネスだというお話
本当に良い記事なので、みなさん読んでみてください♪


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『生活すること』は言い換えると『暮らすこと』

『暮らすことは生きることだなぁ』と去年の終わりに思いました。

「どういう人生を歩みたいのか?」と自分と向き合う中で、です。


だから、毎瞬毎瞬を、日々こそ、丁寧に暮らしたい。

毎日の積み重ねが人生であり、毎日を丁寧に暮らしていくからこそ、死ぬときに『良い人生だった』と思えると思ったのです。

先を見て、何かを追い求めて生きるのではなく。
たった今、ここで、幸せに生きる。
たった今、ここで、幸せになるということを選択する。

今という瞬間の積み重ねが人生だから
そこに妥協はしたくないなぁ

と思ったのでした。もちろん今も思ってます。


『生きること』と『仕事(経済活動)』

本体、生きることの中に、つまり、暮らしの中に仕事があったはずです。
でも今は、その”仕事”というものだけを切り取られて、それが1日のメインになってしまっている。

いのちよりも経済活動が優先になっている社会。
それって生物としてはとても狂っていて、歪んだ感覚なんじゃないかと思っています。

『仕事できないと価値がないのか?』
『生産的なことができないと価値がないのか?』
この問いに『YES』と答えたくなくても、答えてしまう人は多いと思う。

生産性を上げること、つまり経済活動が 第一優先事項。
これは言い換えると『評価』が第一ということ。

『存在するだけで価値がある』
そんな感覚とは真逆の世界。

上の問いにYESと答える人は、自分の子どもが仕事が出来なかったら価値がないと答えるのだろうか。

究極そういうことなのだと感じてしまいます。

でもきっと、そうじゃないよね。
その感覚を曲げないと生きていけない社会が、今の社会。

命よりも、存在よりも、仕事であり、生産性。

暮らすことはその次。


能力や時間で切り分けて、人を物として扱う社会。

”いのち” を大切にしていないのが、今の社会。

人間を、能力や機能だけで評価する社会。

道具扱いする社会。

そのひずみがいろんなところに出てきていると感じています。


でも、本来は ”生きる中に” 仕事があったはずです。

食べるために作物を作り、獲物を狩る。

寒さから身を守るために服を縫う。

よく生きるために考える人の言葉が誰かを導く。

生きていくための仕事をする中で

その『余剰分』が誰かのお役に立つ。

その『余剰分』で誰かが幸せになる。

それで足りない時は”足りない”ということを受け入れた。

ある中で、幸せに生きる。

”足りない”があるからこそ、”ある”ことに感謝が生まれる。

”ある”ことが貴重になる。

感謝で、いのちが紡がれる。


”自分のいのちが輝き”の余剰分が、誰かのいのちを守ったり、照らしたり、育んだりする。

”自分のいのちの輝き”= ”得意” や ”好き” や ”喜び” を発揮され、それが誰かの幸せになる。

まず、”自分”が中心にあった。

”自分=仕事” それがあるべき姿。


生活する喜びの中に、誰かの喜びが入ってくる。

それは仕事のために生きているわけではなく、

自分を”生かす”中に仕事があったからだと思うのです。

つまり、人が暮らすということは

本来は”自分を生かす”ということだった。

本来生活のど真ん中にあるのは”自分”だったはずです。

喜ばせる対象が家族や仲間というとがあったとしても、

まず中心にあるのが自分だったから、

自分の”好き”や”得意”がスタートだった。


この間、『産業革命以前は人々は” 終わること ”” 死ぬこと ”をちゃんとわかっていた』ということを聞きました。

これを聞いた時、いつも考えていることと一致したので「やっぱり」と思いました。


そして今、働き方、生き方改革がいたるところで叫ばれています。

残業を一つ例にとってみますが、

私は、残業をしようがしまいがどっちでもいいと思っています。

その人が生きるというリズムの中で起こってくるならば残業する時があってもいい。

だって、今日は調子がいいからもっとやりたい。も

今日は全然あかんから早めに切り上げよう。も

生物のバイオリズムとして、いのちとして当たり前だと思うから。


仕事をする時間、場所、と区切るからおかしくなる。

どうしてそうなったか?

それは産業革命で、人を労働力と見なし、時間と能力で切り分けて、それに対価を払うようになったから。

仕事、経済活動が先にあり、そこに人の能力をあてがい、時間を切り売りしたからです。

いのちの価値ではなく、能力、時間の価値が最優先事項となった。
経済を発展させるため。

それまでは人が暮らす。生きる。という中に仕事があった。

でもまず仕事が先にあり、そこに人をあてがう。

能力と時間だけを抽出し、いのちから切り離した。


いのちは尽きるものであり、”おわり”がある。

暮らしという言葉の語源も、

〈暗くなるまで〉+〈する〉ということ

つまり、”暮らし”は”暗し”ということ。

暗くなるまで何かをすることが暮らし。

暗くなったら終わる。

電気のない時代は、暗くなったら作業ができなくなる。

日の入りが作業の終わりになる。

”終わり”を意識して生活していたのです。


いのちが尽きること=死もそう。

死ぬということ。いのちにも終わりがくるということ。

それもきちんと生活や意識の隣にずっとあったんだと思います。


今の私たちには、終わりがありません。

いつも電気がついて、夜中まで作業して、テレビ番組も今は24時間ある。

経済活動はどんどん拡大するものだという意識があり、

医療が発達し、寿命も延びていく。

人間という、動物という、”いのち”というところからどんどん逸脱していっている。

いのちや物事の”限り”から目を背けている。

終わりがないから、もっともっとと夢を見ている。


できない。弱い。が受け入れられない。

それはつまり、能力が低い=価値がないから。

けれど、本来私たちは、”できない”し、”弱い”ものなはず。

”非力”で”未熟”なはず。

自然と同じように、” 限り ”があり” 終わり ”があるのです。


そして、私たちの価値は”いのち”の価値なはず。

”能力”の前の大前提に、

”いのち””存在”の価値があるのです。

それは ”終わりがあるからこそ” 輝くもの。



心理学で学んだことに

『本当の強さとは、弱さを受け入れ、弱さに入っていく強さ』

というのがあります。


コンビニが24時間空いていて、電灯が消えることなく灯り、いつでもなんでもできる社会。

「仕方ないよね」が通らない社会。

”できる””もっと”それが当たり前の社会。

それこそが、私たちの首を絞めている。

そして、この”もっと”こそが今の地球の危機的状況、そして生きづらさを作っている。


私たちに必要なのは

『弱さを受け入れ、弱さに入っていく強さ』

なのだと、思います。

『終わりを受け入れ、終わりとともに生きる強さ』

『限りを受け入れ、終わりとともに生きる強さ』


それが、『成熟さ』なのだと思います。


”終わり”があり、”限り”を受け入れるからこそ、

たった今、ここで、幸せに生きる。

たった今、ここで、幸せになるということを選択する。

先を見て、何かを追い求めて生きるのではなく、

”今を生きる”ということができるようになるのだと思います。

















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