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あちらの世界で会いましょう

スカイ・プリンスさんのビデオにあった言葉を表題とした。

メドベッドのインテルプロバイダーとして、ここ何年も軸のぶれない情報を発信してくれていた彼女は、スピリチュアルな指導者としてもメッセージの内容が一貫していた。

すでに削除されたが、昨日のビデオメッセージでは、いつになく嬉しさを隠せない様子だったから、いよいよそれ(RV)が来るのだろうと思わせてくれた。

RVが始まって、銀行などで Redemption(買い戻し)をしてもらえれば、どうやら私たちは「あちらの世界」に到達したことになる、ということらしい。それとほぼ同時に、新しい医療の恩恵も受けるということのようだ。

近未来のその時点をもって5次元だというのだが、筆者もまだ十分に説明しきれていないので、ここで整理してみたいと思う。

「意識が5次元にある」という状態と、「意識がまだ3次元のまま」という状態──これを比較するには、神道の「なかいま」という意識がわかりやすい。

「なかいま」とは、今この瞬間に意識があり、時間に影響されない高次元の状態のことだと理解している。デジタル大辞泉によれば「神道における歴史観の一。時間の永遠の流れのうちに中心点として存在する今。単なる時間的な現在ではなく、神代を継承している今」だという。

時間に影響されないとは、つまり、過ぎたことに意識を奪われない、先のことを考えあぐねて意識を奪われない、ただひたすら純粋に、意識は今、ここにあるという状態で、その状態であってこそ意識は高い波動へと接続される。

波動の高さということでいえば、最上レベルには「感謝」「愛」「力が漲ってくる感じ」などがあって、やはりそこには時間は存在しない。

つまり、時間本位の意識が3次元であり、時間とは無縁、時間から完全に自由でいられる意識が5次元以上であるということができる。

筆者興津諦が若かりしころ大修館書店の言語学専門誌『言語』(1994年12月号)に発表させてもらった論説では、「過去形」「現在形」など時間の概念は言語の原理とはなりえないこと、そして、原理というべきは、意識と対象(認知の対象)の関係性であるということを論じたが、それが結局学会で無視されてきたのはなぜかといえば、(おそらくこれもカバール支配によるものだと想像するが)、言語の原理に時制(テンス)と相(アスペクト)ありきとすることを絶対化し、それを前提として言語学や哲学が行われてきたという「茶番」が支配していたからであって、時制などを取り払って「意識」を据えようなどということになれば、言語学が根底から否定されかねないということだったらしい。(詳しくは下記リンク先を参照)

「見える↔見えた」を使い分けるのは、それが「現在↔過去」だからではなく、それが「意識主導↔対象主導」だからである。

「意識主導」であれば、発話内容となる事象がまだ発生してないことも表せる(未来、現在、未完了)し、「対象主導」であれば、発話内容となる事象がすでに発生していることも表せる(過去、完了)。ただそれだけのことなのだ。

つまり言語学でさえ、「意識」を軽んじてきた。というより、そもそも「現代科学」とされる学問のほとんどが、「意識」を「得体のしれないもの」だとか、「存在が証明できないもの」だとしてきた。つまり、意識を否定して「科学」を成り立たせてきたのだ。(その「学問」とはなんという馬鹿げた茶番だったのかということだ)

つまり要するに、この茶番科学に支配される限り、3次元から抜け出ることは不可能なのだ。これから5次元に移行しようというからには、この茶番に気づくことが最低条件。あるのは意識であって、意識以外のあらゆる事象は些末なことでしかないと言ってしまってもいいほどだろう。

スカイさんが「あちらの世界」と呼ぶ、その新しい世界には、この茶番が存在しない。

なによりも意識であり、なかいまであって、高次の世界がただそこにある。

そこにある高次の世界に気づかず生きてきた人々も、これを期に気づくことになる人がどんどん増える。

気づいた人々はRVやメドベッドにも助けられて、憂いのない人生へとシフトする。

そうして5次元を生きることになった人々は、寿命もどんどん延びていく。

ところが取り残される人たちも出てきて、憂いから解放されないその人たちは、将来を案じてかけてきた生命保険はどうなるのか、払い戻される税金や支給される基礎収入が他の人たちと比べて多いのか少ないのか、メドベッド治療でミスコンに出てセレブになれるはずだがやってもらえるのか……、そんな5次元以上ではどうでもいいはずの憂いに雁字搦めなまま、新しい地球も相変わらず生きづらいものでしかなくて、自分の意識が自由に選択できるはずの幸福が得られないということにもなるだろう。自分軸で生きられない、他者のせい、社会のせい、親のせい、自分の生い立ちのせいという依存から抜けられぬまま生涯を過ごすのだ。

そんなことにならない限り、あちらの世界は私たちを待っている。私たちはこの自由な意識でその世界を選択する──それだけでいいはずだ。

今、準備として心がけることがあるとすれば、感謝について知ること、感謝の反対を選択しないことが基本になると思う。

感謝とは、頭で「感謝する」のではないし、「ありがとう」と言えばいいわけでもない。感謝という湧き上がる感情を覚えること、それこそが感謝であり、それ以下であっては虚しい。

感謝の反対とは、ジャッジすることとクレームすることだ。クレームとは、要求と言い換えてもいい。他者と相容れるとは限らない自分の価値基準というものがあり、それは本来の自分軸とは異なり、あくまでも他者依存でしかないということを知るべきなのだが、その価値基準において他者を断罪することがジャッジであり、高次から見て極めて愚かな思考だということになる。その愚かさに胡座をかいて、他者に一方的な要求をしたり、いちゃもんをつけるような考え方をしたりすることがクレームだが、愚かしさの上の愚かしさでしかないのだから、それをはっきり肝に銘じておかなければならない。

しかしながら、ジャッジとクレームというのは、これまで生きてきた3次元世界では日常茶飯事であって、さも普通のことのようにも思われる。されどジャッジとクレームを続ける限り、感謝や愛とは遠ざかったままになってしまうのだから変えて正すしかない。

そこに意識が必要になる。意識は意志に力を与え、沸き起こるジャッジ・クレームがあれば、意志の力をもって即座に感謝に切り替える。最初は慣れないという人も、これだけはがんばってみることで、感謝体質に変わってくるだろう。

あちらの世界はもう目の前にある。

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