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外出 2022/07/30(土)

私は写真を撮る。最近だと一昨日くらいに撮りに行った。
昼夜逆転を治した反動か、頭痛が酷かった。その気分を晴らすために外に出ようとしたのがきっかけだった。午前7:30にカメラを持って外に出た。確か、そんな天気も良くなかった。ただ、暑くてタオルは持っていった。でも飲み物は買わなくても熱中症にはならないくらいだった。

自転車を漕いでいる途中、ずっと考えていた。
自分が生きる意味を、自転車を漕ぐ時はヘルメットをつける。ヘルメットをつける意味とは。首の紐が邪魔じゃないか、汗がこもって気分がより悪くなるのではないか。

頭痛が酷い時は哲学的な思考をする癖があった、悲観的になることが多々あった。自転車を漕いでいるにも関わらず風を感じなかった、凪だった。いや、自らの頭の中は凪では無かった。
頭痛と嫌な考え事とこれからのビジョン
マルチプルな頭の中に混乱していた。

全てが解決しないまま撮影場所に着くと、目的としていた被写体の蓮とは別に、一匹の猫がいた。
自分は動物が好きだからその猫を夢中で撮っていた。そろそろ良いかなと思って当初の目的を果たそうとした。ふと当初の目的が何かを考えた。蓮を撮ることではなく、写真を撮る事だ。本質的にはそうなのだ。

だが、せっかく蓮を撮りに来たので蓮も撮った。
しかしそれは決して惰性ではなく、写真を撮ることが好きなので蓮も楽しく撮ることが出来た。

そもそも猫を撮った後に当初の目的の事なんて考えていなかった。この日記を書くにあたって、筆が乗っただけなのだ。
そして、更に深く考えれば、当初の目的は頭痛を晴らすためということに気がついた。

写真を撮っている時には頭痛の事は気にしていなかった。写真を撮ることで気を紛らわすことが出来たのだろうか。

帰り道の自転車は行きの自転車より長く思えた。多分実際長かった。
Googleマップはたまに役に立たないで、ヘンテコな道を指定する時がある。だから自分が即興で安全な道を選んで、Googleマップに間違いを指摘されながら帰ることがある。最後には根を上げて進路を合わせてくれるのだ。
その時に即興で選んだ道が遠回りだったのだろう。ヘンテコな道とか言ってごめん。
言い訳をさせてくれ、カメラを自転車のカゴに入れているからでこぼこ道を通りたくないんだ。わかってくれるか?

不意にでこぼこ道を通った時の寿命の縮まり具合は半端ない。カメラが自転車のカゴから浮遊して飛び立つ。

そうやって家に帰り、撮影した写真の確認をする。スマホに転送して家族に見せてあげようと思った。

写真を撮る意味について考えることがある。
Instagramを中3からやっているが、自分から投稿をしたことは無い。不特定多数の人間に自分の写真を見せることに忌避感があるからだ。

写真というものは19世紀に発明され、当時は一枚の写真を撮るのに8時間がかかるようでした。その後、1839年には一枚30分まで短縮されたようです。
昔の人は何を原動力に写真を撮っていたのでしょうか。
それは今も昔も変わらず、瞬間を撮影することで半永久的にその記録を残すためではないでしょうか。

しかし今ではInstagramやTwitterがあります。
写真を撮ることの目的が自己顕示欲になっていると感じます。それはひとつの写真の在り方です。非難する気もありません。しかし、それは現状を軽んずる原因にもなります。日々を噛み締める。目に焼きつけるにはカメラだけではなく五感を使うことが大切だと思います。

私はこれからも、日々訪れる何気ない時を写真という記憶媒体に頼るのではなく、心に残していきたいと考えます。

結論がありきたりな感じで終わってしまうのはセンスが無いことを感じるが、無いセンスを振り絞っても意味が無いので、これくらいで終わりにします。

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