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マイ・ブロークン・マリコ

2023年5月に発効した同人誌「クィア映画読本 volume.1」より抜粋したレビューです。

マイ・ブロークン・マリコ
二〇二二年 日本 八十五分
監督 タナダユキ
主演 永野芽郁 奈緒 窪田正孝 吉田羊 尾美としのり

eiga.com


ポスターデザインが最高に好き


  こういうことを書くと怒られそうだが、「マイ・ブロークン・マリコ」は色んな俳優で何度もリメイクしてほしい。八〇年代ならW浅野、九〇年代なら内田有紀と菅野美穂、もしくは中谷美紀とカヒミカリィで。二〇〇〇年代以降であれば新垣結衣と蒼井優である。私個人のキャスティングなので反論は受け付けない。釣り人は一貫してオダギリジョーにお願いしたい。もしくは斎藤工。逆に歳を重ねたバージョンなら、五〇代の天海祐希と板谷由夏でもいい。ネットフリックスの「FOLLOWERS」や「彼女」に出演していた女性陣をぐちゃぐちゃに配置したっていい。それくらい、女性の、女性による、女性のための映画なのだ。
 
 平庫ワカの原作コミックを手に取ったのは「重版の売上一部を自殺防止支援団体へ寄付する」というニュースをみたからだった。映画の予告は一度劇場で目にしたが、それほど心を奪うほどではなかった。書店でコミックを購入しその夜本を読み、以来一度も手に取っていない。二度読み直すのがつらいと感じられたからだ。そのくせ映画館にはきっちり足を運び、初日に鑑賞した。売り切れていたパンフレットもいくつかのTOHOを巡回してようやっと入手した。いま、そのパンフレットを手元に置きながらこれを書いている。
 
 中学から高校にかけて、私の親友ともいえるひとの名前はマリコだった。初めて家に遊びに行ったのも、年賀状を交換したのも、授業中に手紙を送ったのも、携帯電話の番号を教えたのも彼女だった。私が留学し、彼女は短大に進み、社会人になってから顔を合わせたのはほんの数回だ。青春の六年間を恐ろしいほどの密度で過ごしたくせに、別れる時はあまりにもあっさりしていた。彼女に対し恋愛感情はなかったし、面倒くさい女の子と思っていた節はあっても互いに健康的な生活をおくっていたと自負している。マリコとシイノのような関係性ではなかったけれど、あのままつきあいが続いていたらどうねじれていたかはわからない。
 そのすこしあと、二十代後半から付き合いのあった友人の「女の子」はやはり生命力のあるマリコのようなひとだった。自立しており性格も明るく攻撃性も十分高い彼女は、私から見れば自由奔放に生きているようにみえた。のちに、私の存在に依存していたのだと、周囲の人間たちに言われて驚いたのをおぼえている。別れのきっかけは私に恋人ができ、その相手へなのか、私に対してなのか何らかの感情が爆発したらしく、ある日を境に連絡がとれなくなった。その八年後、偶然に都内の映画館で再会し、差し障りのない会話を五分ほどして別れた。驚くほどどうしようもない、元気そうだね、仕事はどう?といった言葉しかかわさなかった。これでもう二度と会うことはないだろうと、私はどこかさっぱりした気持ちでそそくさと映画館に向かった。あの時の呪いが一気に落ちたような感覚は、マリコの手紙を読んだシイノの気持ちに最も近いんじゃないかと勝手に思っている。



 カビのはえたドクターマーチンとマリコの遺骨を抱えて旅にでるシイノの目的は、自分の魂の昇華である。死んでしまったからにはマリコにできることはない。彼女が何を望んでいたのかもわからない。残された人間にできるのは、残された側がどう救われるかを実行するだけである。それに十年かかることもあれば、数日で終わることもある。「死にたい朝 まだ目覚ましかけて 明日までいきている」THEピーズの曲がエンディングでかかり、くたばる自由と生きのばす自由を改めて手にしたシイノ。彼女はこれからどこへ行くにも、マリコの欠片が一緒なのだ。それが救いなのだと思う。
 女同士の友情は火山口のように深く、首を突っ込みすぎるとやけどする。ほうっておいても流れ出るマグマに巻き込まれることもある。男性が女の絶望を知ることは滅多にないと思われるので、ぜひこの映画をみてほしい。監督のコメントに自殺は暴力だとあった。愛することもある種の暴力で、それを自覚なしに生きていくことも誰かにとっての暴力なのかもしれない。


漫画版第1話はここから どうぞ


タナダユキ監督のインタビュー


クィア映画読本 volume.1(完売)



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