【書評】『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』

『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。
 本書内で述べられているように、アニメやゲーム等のポップカルチャーが語られること自体、何も珍しくない時代にあって、特撮は等閑視され続けてきた。
 それでも『ゴジラ』論は、特に『シン・ゴジラ』(2016年)前後において、繁く語られてきたが、『ウルトラマン』論はそう多く語られてはいない。
 主要な書籍を、思いつく限り上げてみる。
 切通理作氏の『怪獣使いと少年』はその中でも、エポックメーキングであったし、他にも原田実氏の『ウルトラマン幻想譜』、小野俊太郎氏の『ウルトラQの精神史』、白石雅彦氏の『ウルトラQの誕生』~『ウルトラセブンの帰還』までの三部作等がある。私の著書もこれらの系譜の末席に置かれるものではあるかも知れない。
 本書の論は、先行研究を意識しつつも、既存のどの本とも趣を違える。 

 本書では、文化論として「特撮」そして『ウルトラマン』が語られる。
 最初に目をひいたのは、「大きな物語」→「大きな風景」という転回についての指摘だ。

 国を挙げて、集団で実現を果たそうとする(果たす中身は、時代によって、米英撃滅であったり、西欧的な豊かな生活の獲得であったりする)「大きな物語」が機能していたのは社会学者の研究によって、1970年前後とされるが、それが退潮し、代わって『帰ってきたウルトラマン』では「大きな風景=東京」が描かれるのだとする。
 『ウルトラセブン』までの都市空間というのは、それがおそらく東京であることはわかるにせよ、多くの場合明示されない。しかし、本書が指摘するように『帰ってきたウルトラマン』では、執拗なほどに「東京」という地名が示される(それ自体は、上原正三氏の過去のインタビュー等から、広く知られていることではあった)。
 本書で繰り返し述べられるように、中流階級の住む郊外としての東京がこのシリーズでは描かれる。と同時に『帰ってきたウルトラマン』ではかつて戦争があった場所としての東京が描かれている。第5、6話の前後編では、岸田森演じる坂田が戦争、そして疎開の記憶を語り出す。そこは紛れもなく、四半世紀ほど前には空襲があった場所としての東京なのである。

 『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』は、その時代設定が近未来であるかのように(各エピソードを貫く確固とした時代設定は存在しない)描かれ、戦争への言及や回想が描かれない。対して、『帰ってきたウルトラマン』では、視聴者の住む東京、あるいはメディアによって地方にも伝播するイメージとしての東京、つまり視聴者にとってのイマココと地続きとでも言うべき、現実の東京が舞台となることで、中流階級の住む郊外も描くし、かつて空襲があった場所としての東京も描くのである。
 ロラン・バルトは『エッフェル塔』の中で、エッフェル塔に登り、下界を俯瞰するものはその地の歴史を思わずにはいられないと指摘した。塔は気球や万国博覧会と同様の俯瞰の装置であるが、さらにバルトはそこにパリンプセスト的な歴史的積層を感じ取ったのである。
 怪獣はそのような意味で〈塔〉である、というのが私の怪獣観だが、平面軸に広がる当時の東京(東京タワーから、団地の林立する郊外まで)のみならず、垂直軸に存在し、上書きされてもなお消えない戦争の記憶を浮かび上がらせるのは、東京というのが現実的にも、幻想的(イメージ的)にも多数によって共有される「大きな風景」だからといえるだろう。
 そのような思考を整理、包括するかのような「大きな風景」という言い表し様は慧眼である。

 次に、万博以降の失われた未来への想像力を補填したのが「家族」なのだとする。
 森川嘉一郎氏が「未来の凋落を趣味によって補ったのがオタク」とするのをひきつつ、その凋落を家族によって埋めたのがこのシリーズであるという。この部分は筆者の思うところをもう少し知りたかったが、70年代の『ウルトラマン』シリーズを家族で読み解こうというのは的確な方向性であると思われる。
 思うに、万博以降に稀薄化していくのは「未来への想像力」に加えて、「公」の権威ではなかっただろうか。
 『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』で、ハヤタやダンはそのホモソーシャルな公的空間の中に生きる存在であった。しかし、『帰ってきたウルトラマン』以降では、公的空間と並行するかのように、”居候”先としての私的空間が描かれ、私人との濃いつながりが描かれる。
 「大きな物語」が稀薄化していく中で、人々は公人として使命を果たすべく一員としてのみ存在することはできなかった。それは、もともと自動車工であったり、運転手であったり、ボクサー修行中の若者であったという、主人公たちの出自に加えて、作品全編を通して、私的な空間を描かなくてはならないほどのものであった。
 「実は私はウルトラマンである」というだけでは、フィクションの中とはいえ若者一人の人格を、そしてその若者を廻る50数本ものエピソードを造形しきれなかったのである。
 「大きな物語」の退潮を「家族」が埋めたという指摘はおそらく正しい。そこに、「公」の退潮という補助線があったならば、この議論はより明確なものになったようには思われる。
 ところで『ウルトラマンレオ』ではその「公」がとうとう崩壊する。
 防衛隊は全滅し、主人公が居候先することになる家庭が描かれる。そこは、病院で婦長を務める女性が家長で、娘二人が住む家であった。ここに「公」に加え「ホモソーシャル」や「父性」の稀薄化を見る想像力があってもよいだろう。時は1974年。世はオイルショックによって、高度経済成長が終わるというパラダイムシフトを経験していた。
 
 本書は『ウルトラマン』シリーズを昭和初期の少年文化の枠組みに置く。
 これも作品を理解する上で、欠かせない視点だ。戦前以来の『少年倶楽部』的な想像力は間違いなく、初期のシリーズに継がれている。特に『ウルトラマン』のホシノ少年に、江戸川乱歩の探偵小説に登場する小林少年を重ねる想像力は、両方の作品を知る人の中では自然に養われるほどのものと言って良い。
 さらに本書では、『ウルトラセブン』「盗まれたウルトラアイ」や『ウルトラマンA』「夏の怪奇シリーズ 怪談 牛神男」を例に、この作品が時として「青年」への冷淡さを描くことを述べる。これは確かに特徴的なことで、『帰ってきたウルトラマン』「怪獣シュガロンの復讐」や、テロチルスが出てくる前後編、あるいは『ウルトラマンA』「友情の星よ永遠に」などでも、執拗に青年の醜さが描かれるのである。これは少年が未熟でありつつも純真な存在として描かれるのとは対照的だ。
 一方で、70年代のシリーズの主人公もみな、同時代の若者として描かれてきたという事実も見逃がせない。だから当然に主人公にも、若者の醜さ、見ていられない感じ、軽薄さが描かれる。そしてそのような暗部をも昇華させていくという意味で70年代のシリーズは「成長譚」であった。そしてそれは主人公と共に生きた少年たち、次郎やダン、健一、トオルたちの成長と相似形を成す。これは「人はみな光になれる」として、人間はより高みを目指せる存在なのだということを繰り返し説いた平成シリーズとは異なる「成長譚」といえるだろう。

 本書では、『ウルトラマン』シリーズの想像力を円谷英二に求め、さらには円谷の想像力の源泉を飛行機に求める。特撮と飛行機はともに20世紀初頭に生み出されており、(特撮)映画が世界の情景の再現を可能にするメディアであり、「超越の欲望」は『ウルトラマン』に継がれているのだとする。
 これは私には全くない発想であった。
 先に少し触れたように、塔や気球、万国博覧会、あるいは世界旅行やパノラマは19世紀に誕生した俯瞰の欲望の具現化であり、同じ欲望が通底する以上、共通性のあるものになり、怪獣を塔的なものと受け止めることで、怪獣は俯瞰の欲望を満たすものであると考えていたが、そもそも特撮技術や、飛行機もそこに並置できるということになる。

 その他にも、 映画の怪獣は「ハレ」=(南洋など)特別な場から出現し、テレビの怪獣は「ケ」=日常の場から出現するという指摘も鋭い。ただ、『ウルトラQ』は(またかろうじて『ウルトラマン』は)「ハレ」と「ケ」の汽水域にあり、怪獣の「脱映画化」「親テレビ化」の場所であった。Qでは南海、南極が描かれる。そうかと思えばサラリーマンの日常がそれ自体、怪事件の舞台となる。

 大阪万博は前衛的な建築物を作りながら、そこには本来、前衛芸術がもつ近代文明へのニヒリズムがなく、かわりに「いっさいの影を失った徹底的な明るさ」があり、それは『ウルトラマン』の牧歌的な明るさにもつながっていたという。
 万博の明るさというのは、やはり19世紀のロンドン万博「水晶宮」以来のものであるのだろう。そこには批判性はなく、祝祭性が色濃く存在する。(『ゴジラ』シリーズでも、『ウルトラマン』シリーズでも、ある時期までは怪獣出現に祝祭性のようなものが纏っていなかっただろうか。)
 
 敗戦後の日本映画において戦争は主題とならなかった。しかしそれはサブカルによっては扱われた、という指摘も私の知るところではなかった。
 『鉄腕アトム』が戦後的な科学の明るい面の表象だとすれば、『鉄人28号』は戦前的な、鉄製の兵器による身体拡張、そして行き場を失った小国民の戦意の対象としての敵が描かれていたのだろう。
 
 「こういう議論も可能であったのではないか」という指摘もしたが、それはこの本に対して、何かが不足していることを言うものではない。この本を土台にして様々な発想が出てくるものだということなのである。読んで溜飲を下げたり、納得しきって読み終わるのが良書であるとは思わない。本の向こう側にいる批評者と対話をするごとく読めるのが良い本である。例えば、輪読の際のテキストに選ばれた際に、当番者が疑問や批判などのとっかかりを見出し、他者がそこに議論できるような本こそが良書だと考える。
 その意味で、この本は『ウルトラマン』シリーズについて、特撮について、ポップカルチャーについて、対話を通して発想を広げられる、優れた一冊であると考える。
 繰り返し読み返したいと思う。

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