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糞フェミでも恋がしたい (その40 終)

私の名は能條まどか。糞フェミだ。

糞フェミにも糞フェミの人生があるのだ、人生があって、苦しみがあって、悦びがあるのだ、もちろん、それは糞フェミでなくても同じだ、つまりは要するに、糞フェミであっても糞フェミでなくても、人生は人生、自然の摂理にしたがって、雄は雄として、雌は雌として、与えられた時間を、完走するしかないということだ、命というのは、そういうものだということだ、理屈ではない、息をしたり、触ったり、感じたり、身体のすべてが教えてくれる、このあたたかな血の流れに従えということだ、心臓の鼓動に従えということだ、どんな言葉も、しょせんは記号で、触れることも、感じることも、ましてや息づき、命を育むことなど、できはしないのだ、そんなものが、苦しみにうめく人間にとって、どれほどの救いになるだろう、呪いに責め苛まれる人間にとって、どれほどの助けになるだろう。

救済とは、待つべきものではなかった。
救済とは、ただ漫然と願って待つべきものではなかった。
救済とは、自分が誰かに為すべきことだったのだ。
自分が誰かを救済することで、もろともに救済されるものだったのだ。
自分が誰かを受け入れることで、もろともに受け入れられ、溶け合い、許されたひとつの命になるものだったのだ。
そんなの、誰も教えてくれなかったよ。
自分がただ自分であるというそのことが、こんなにも清々しく、誇らしいものだなんて、誰も教えてくれなかったよ。

私は、糞フェミとしての人生の、もっとも苦しい瞬間に、綺羅君と出会った、運命の雄と出会った、そのことに、素直に感謝する、そして、その運命を素直に受け入れることができた自分を、誇らしく思う、運命の雌である私は、苦しみを抱え、運命の雄である綺羅君も、苦しみを抱え、それは、お互いがお互いを受け入れることで、混じりあい、ひとつになって、苦しみではない、なにか別のものになった、もちろんそれは解決ではないし、安全や保証とは無縁で、どう考えたってこれからの人生が楽なはずはないけど、そんなのどうでもよくなるくらい、私たちはいま、ひとつに溶け合っている、溶け合って、交わって、身体と身体で、愛と、快楽と、生命と、そのなんだかわからない神秘的な震えを、確かめあっている、お互いの心と身体で、確かめあっている、そこには理想も、夢も、希望も、幻想も、なにもない、ただ、現実があるだけだ、この、肌と肌の擦れ合う、肉と肉のぶつかり合う、粘液の、体温の、失禁の、嗚咽の、いっさいの虚飾を捨てた、生命の、生命そのものの行為があるだけだ。

さて、40回にわたって書いてきた、この私の、糞フェミとしての恥さらし、出会いと恋と、処女卒の物語もこれで一段落、もちろん、議論で誰かを論破するならともかく、こんな、自分の心の中をぶちまけて、晒しものにするような文章を書くのは初めてで、上手く書けたところも、書けなかったところもあるけど、それはそれ、私、能條まどかにとって、これほど真っ直ぐに自己を表現したことなど、いままでなかったし、それは実行してみると、意外と気持ちのよいもので、快楽に近い、なにか不思議な意識の開放を感じたことは確かで、それがひょっとすると、社会や良識や教育や、フェミニズムや争いや運動や、さまざまなものに歪められ、縛り付けられ、闇の中で嫉妬と猜疑に狂ってしまった心が、少しずつ光を浴び、その暖かさと、穏やかな風の中で、正直さと、誠実さと、なにより人間らしさを取り戻していくためのステップだったのかと、そんなことを、ぼんやり思っている。

永遠などないけれど、永遠を願う。
それが人間。
たとえ明日、どんな運命が待っていたとしても。
私はただ、感謝と、祈りだけを携えて、生きてくんだ。
綺羅君といっしょに。

読んでくれたみんな、ありがとう。


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