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生活史、分人、速くないインターネット

Blueskyが楽しい。

Blueskyというのは新興のSNSで、だいたいTwitterと同じようなウェブサービスだ。そこにはたくさんの人がいて、それぞれが好き勝手にいろいろなことを投稿している。それらを好きなように閲覧して、好きなときにちょっとした反応をする。likeを押したりrepostをしたりreplyを送ったりというふうに。

SNSは楽しい。
わたしにとって、他人がそれぞれ好き勝手に自分のことを話しているのを眺めているのは基本的に楽しいことだ。自分の話をするのも、自分の話に誰かが反応してくれるのも楽しい。
だからわたしはTwitterが好きだったし、しばらく前からは好きではなくなっていたのだと思う。

『東京の生活史』という分厚い本を久しぶりに手にとって、ランダムに1編を選んで読む。眼鏡屋を経営してきた人の話。中卒で時計屋に就職して20代で独立した人の、家族のことや仕事のこと。その人のことをわたしたちは知らない。その人も決してわたしたちを知ることはない。面白いなと思いながら、わたしは彼らの話を読む。

生活史のような文章を好きになったのと、SNSでいろいろな人の日常を読むのが好きになったのと、どちらが先だったのか、今はもうわからない。
『プロジェクトX』のような高度成長期のサラリーマンたちの物語は昔から好きだったし、いまもライターとしてBtoB向けの仕事をするときには取材相手の生い立ちや趣味の話を聞くのが好きだ(その部分はたいてい記事にはならないけれど)。

平野啓一郎さんが使う言葉に「分人」というのがある。ちゃんと理解できているつもりはないけれど、便利な言葉だと感じている。家族といる自分と、職場での自分は、おなじ自分ではない。役割をこなし、キャラクターを演じ分ける。自分はいくつかの自分に分かれていて、それを全部足せば本来の自分であるかというと、またそれも違うような気もする。

SNSは、人間を分人化する。
と、こんなふうに書くと平野さんに「そういうことではないよ」と言われるかもしれないし「その話はもうしてるよ」と言われるかもしれないけど。SNSでは複数のアカウントをもつ人が少なくない。趣味の話をするアカウントと仕事や生活の話をするアカウントを分けていたり、複数の趣味があれば例えばスポーツ観戦の話をするアカウントと創作の話をするアカウントを分けていたり。Twitterにはいろいろ書くけど、Facebookには家族のイベントと仕事の近況しか書かない、とか。

アカウントを分けることは自分で選んでいるように見えるけれど、実際には読者から要請されているのだと思う。「ここでそんな話をするなよ」という無言の圧力を感じて、場所やアカウントによって話すことを変えているんじゃないだろうか。
わたしはSNSのアカウントを分けたことがほとんどない。何度か試したことはあるのだけど、いつも長続きしない。ひとつの場所にすべてを置いたほうが気がラクでわかりやすい。

いまBlueskyが楽しいのは、いまのBlueskyにいるのが、SNSで遊ぶことが好きな人ばかりだからなのかもしれない。好きなように自分の話をしたり、他人の話にリアクションを送ったりして、それぞれがそれぞれの様子を眺めている。そういうことが好きな人たちが集まっている。

かつてTwitterという名前だったSNSは、この数年ほどでずいぶん疲れる場所になっていった。それは、Twitterに滞在している人たちのほとんどにとって、SNSで遊ぶことが別に楽しいものではなかったからなのかもしれない。
楽しいから遊んでいるのではなく、そこで主張したり争ったり打ち負かしたりすることで価値を獲得しようとする人たち。何かを売るために、あるいは買うために、情報を素早く得るために、Twitterを使っている人たち。そういう使い方が悪いというわけではないけれど、わたしの好きな楽しさは失われていた。

Blueskyの日本語ユーザーは、まだ人数が少ない。だから情報量も少ない。ここで積極的に情報発信をしたところでなにかしらの価値を獲得するには、見返りがあまり期待できない。戦う相手もいないし、賛同してくれる仲間もいないし、好きなコンテンツの公式アカウントもいないし、ニュース速報もない。
それでもBlueskyに滞在している人たちは、単純に、SNSで遊ぶのが好きなんだろう。

宇野常寛さんが「遅いインターネット」という言葉を使っているのを読んだことがある。どういう意味だったかはあまり覚えていないのだけど、「どんどんスピードを加速させていくことだけが正しいとは思えない。ゆっくりと伝わるものもあるし、それもとても大切」みたいな話だったような気がする。ぜんぜん違っていたらすみません。

ともかく、Blueskyの「人の少なさ」のことを考えていて、「遅いインターネット」を思い出した。「遅い」というのはイメージが少し違っていて、「速くないインターネット」くらいがちょうどいいなと思う。

わたしたちは、情報が即座に入手できることに慣れすぎてしまって、すべてが速くあるべきだと感じている。知人がなにかの話題について言及していれば、起きた事件を速やかに把握しなければいけないと思ってしまう。ある映画の広告手法について議論が起こっていれば、その映画のことを速やかに調べなければならないと思ってしまう。もちろん、その必要はまったくない。

わたしがBlueskyに感じている心理的安全性の高さは、「焦らなくてもよい」という言い方で表現できそうだ。
慌てて知らなくてもいいし、慌てて書かなくてもいい。どちらの陣営に立つのかを表明しなくてもいいどころか、どんな陣営があるのかを把握しなくてもいい。なにも焦る必要はない。

Blueskyの面白さは、カスタムフィードという仕組みにあるのだと思っている。これは単に「検索設定を保存して、他ユーザーとも共有できる」という仕組みの新鮮さという意味にとどまらない。

カスタムフィードがあることで、たぶんBlueskyユーザーは、ひとつのアカウントだけでさまざまな自分の話をすることができる。気兼ねなく、スポーツ観戦のことも仕事のことも夕食のこともポケモンスリープのことも同じアカウントですればいい。
スポーツの話を読みたい人は、そういうカスタムフィードを購読すればいい。ご飯の写真を眺めるのが好きな人は「青空ごはん部」のようなフィードを見るはずだ。

「アカウントをフォローすること」の重要度が、かつてのTwitterよりも下がる。フォローしていなくてもフィードで見ればいい。フィードで何度も見るうちに人となりにまで興味がわけば、アカウントをフォローしてもいい。フォローが大前提ではなくフィード購読が普通ということになれば、「FF外から失礼します」といった挨拶も不要になるだろう。

人は勝手に分かれている。「分人」を持ち出さなくても、わたしはいつもいろいろなことに興味を持っていて、いろいろなことを喋ったり読んだりしている。
意識的に分かれることをせず、勝手に分かれたままでも気ままに過ごしていられるから、たぶん、この新しいSNSは楽しい。

わたしは、知らない人たちの生活を勝手にぼんやり見ていたい。知らない人たちが何気なく(あるいは積極的に)撮影した青空や夕飯や飼い猫の写真、買ってしまったもの、読んだ本や観た映画の感想、そういう生活の切れ端を、思考の切れ端を、ただ見ていたい。

集まる人が増えれば、場所の速さは変わっていく。だからこの「速くなさ」は一時的なものなのだとは思う。あるいは、なにか仕組みによって場の雰囲気を維持しながら拡大することもあるのだろうか。わからないけれど、とにかくわたしは今、ここで楽しんでいる。

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