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ホイッスルの伝統的な奏法は失われてしまったのか?

アイルランドの伝統的な音楽を語る上で欠くことができないバイブルのような書物があります。それは、ブレンダン・ブラナックの『アイルランドの民俗音楽とダンス(Folk Music and Dances of Ireland)1971年』という訳本です。そこに掲載されているホイッスルの運指が、楽器店で配られる運指表やYoutubeなどで見かけるものとは少し違っているのです。これはいったいどういうことでしょうか?


近年よく見かけるホイッスルの運指

左から、レ、ミ、ファ#、ソ、ラ、シ、ド#、レ
黒丸は指穴を閉じ、白丸は開ける。

このD管を例にした運指では、A(ラ)、B(シ)、C#(ド#)の音で開放穴が多くなると楽器の支持が不安定になります。そこで、右手の使っていない小指で楽器を支える必要が出てきます(G管、C管、などキーが違っても運指のやり方は同じです)。


ブレンダン・ブラナックの本に掲載されている運指

左から、レ、ミ、ファ#、ソ、ラ、シ、ド#、レ

一方、こちらの運指では、A(ラ)、B(シ)、C#(ド#)の音のところで、楽器を支えるために右手の薬指や中指を押さえると説明されています。上の表と見比べてください。面白いことにこれらの指を押さえても音程は変わりません。

一見複雑そうに見えますが、左手の指3本と右手の指3本、計6本の指だけで演奏できるので手の使い方として合理的に思えます。普通ではちょっと思いつかない、伝統的な技の妙が感じられます。


伝統的な奏法について

民俗音楽を再現する上では、曲だけでなく、当時の演奏家がどのように演奏していたのか、つまりその奏法を知ることが不可欠です。

例えば、アイルランドとスコットランドのフィドルでは、リバイバルの際に現役の奏者がたくさん見つかったので、ボウイングや装飾音などの奏法がよく分かっています。だから、私たちもそれらを確実に学ぶことができるのです。ところが、南イングランドのフィドルでは、奏者はわずかしか見つからず、サンプルとして不十分でした。

さらに、完全に奏法が失われてしまった例として、アイルランドのハープ、スコットランドのハープ、ウエールズのフィドルが挙げられます。奏法が途切れてしまったので、現在の奏者は当時の資料を調べたり、想像力を働かせたりしながらそれを補っていくしかありません。

ブレンダン・ブラナックが記録したこのホイッスルの運指は、当時、彼が知り得た奏者の多くが行っていたものなのでしょう。彼は音楽関係者と密なつながりがありましたから、例外はあったとしても、1970年代まで生きていたホイッスル奏者の間で伝えられていた伝統的な奏法であったと考えるのが自然です。


なぜ、記録された運指が現在伝わっていないのか

 しかしながら、昔の人が行っていたこの運指は現在のところ、日本だけでなく現地でもあまり見られなくなってしまったようです。

考えられる理由のひとつとして、民俗音楽では、楽器の奏法に個人の好みが反映されるので、ホイッスルでは小指を添える方法が多くの人に好まれたから、ということも当然あると思います。

しかしまた別の理由として、時代によって新しく登場するメディアによって、流通するものが変化したことが挙げられると思います。家族や地域など顔の見える間柄で技を伝え合っていた頃とインターネットから情報を得る現代とでは、当然、流通する情報の内容も変化したでしょう。ブレンダン・ブラナックの頃にはいなかったネットのインフルエンサーの影響力は現代では絶大です。どこかの過程で、彼らに取り上げられなかったことで気付きにくくなったから、ということもあるのではないでしょうか。 

音楽は自由で伝統に縛られることはありません。けれども、ホイッスルの伝統的な奏法について知った上で自分の好きな奏法で演奏することと、それを最初から知らないでいることでは意味が違います。もし昔の人が行っていたホイッスルの運指についての情報がネットでも出回っていたら、その方法を試してみたいという人がいるかもしれませんよね。

『アイルランドの民俗音楽とダンス』の当該のページ。
p113 7.楽器 ホイッスルの項 
この本は2000年代に絶版になってしまったので、
ますます人の目に届きにくいものになってしまいました。


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動画紹介

小指を使わず6本の指だけで演奏している往年のホイッスル奏者の動画を観てみましょう。この年代の奏者の動画はあまり多く残っていませんが、彼らは伝統的な奏者として有名な人ばかりです。ブレンダン・ブラナックも彼らと知り合いだったのでしょうか。

マイコ―・ラッセル(Micho Russell 1915-1994年)


メアリ・バーギン(Mary Bergin 1945-)


ドナハ・オブライアン(Donncha Ó Briain 1960-1990年)


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