あなたは如何にして「答え合わせ」を行いますか?

性依存症の自助グループに繋がって3年、恋愛依存症の自助グループに繋がって2年、私の回復は進み、とあるグループのチェア(代表)をやらせて頂くに至り、記念コンベンションという大舞台で登壇をさせて頂いた。
それから半年が経ち、性依存症のグループで活気が溢れてきた頃、仲間との話の中で、性被害者への贖罪と回復の話で持ちきりとなった。

私のアライ垢を知っている人や私の同人誌を手に取って下さった方ならご存じかと思うが、私は元性加害者である。ゆえに性依存症の自助グループで治療をしているわけだが、プログラムを進めるにあたり、いずれどこかで被害者と向き合わねばならない。そして、被害者への埋め合わせは続けていかねばならない。

あるミーティングで話題になったのは、被害者にどうしたら許されるのか、どうしたら回復できるのかということだった。性依存症者は贖罪と回復が結びついてしまいがちな傾向があるように思うが、それで回復できるわけではない。性加害者は例外なくまず自分も被害者であったことを思い知らなければならない。
しかし被害者であれば何をやっても許されるわけではない。それは性加害者だけでなく現在の被害者に対しても言えることだ。この意見が出たのは女性メンバーからだ。加害者も被害者もいま苦しんでいる。そしてそれを安全な場で分かち合うことで癒やしが得られ、最終的には相手を赦せるかどうか、それはその人の問題であると語ってくれた。その通りだと思う。

私自身が被害者に対してどう思っているか。大変なことをしてしまったと思うし、その痛みや苦しみは想像を絶するものだということを治療を進めていくうちに思い知ることとなった。つまり、治療を経て被害者の気持ちがわかる資格を神から頂くことが叶った。
そして同時に、罪悪感も感じられるようになった。正確には罪悪感と恥の区別ができるようになった。罪悪感は行為を悪だと思うことで、恥は行為を行った自分(の存在)が悪だと思うことだ。治療前は両者の区別ができなかったため、問題行動を繰り返すたびに自分自身の存在を否定し続けていたのだ。
依存症者(加害者)は回復することが責任と言われる意味がここでようやくわかった。自分が自分の痛みを知ることこそ、被害者の苦しみを知る第一歩なのだ。治療こそが被害者への償いを行える唯一の方法である故に、人生を賭けてやらねばならないと思っている。私が被害者に対してできることがあるとするなら、このプログラムに繋げることただ一つだ。

先日、私の尊敬する助産師の方が「被害者が立ち直る方法」を配信で話していた。いわく、被害者のままでいて相手を恨み続けるのは(手っ取り早く承認欲求を満たせるしたくさんの人が同情してくれるから)楽だ。しかし、被害者のままで居続けることによって自分の未来、これからの人生はどうなってしまうのかを俯瞰したときに、このままではいけないという気持ちになって変わることができた、と。
これはまさに依存症治療の12ステッププログラムの目的ではないか。彼女の言っていることはまったくその通りだ。生きやすさとは被害者でいるのをやめることだ。現に性加害者はいじめや虐待の被害者で居続けたことによって新たな被害者を出してしまったのだから、被害者に償うためにはまず自分が被害者をやめなければならないのだ。そしてこれもまた、現在の被害者にも言えることなのだ。

ネット(安全でない場所)で告発を行う性被害者の悲痛な叫びは今なら理解できる。しかし、安全な場所ではない故に目的が承認欲求や加害者叩きなどになりやすい。元TOKIOの山口達也さんなどへのバッシングに見られるように、加害者を叩いて更生の足を引っ張ろうとする人がいる。また、加害者に赦しの機会を与えないことによって生殺与奪を握っているつもりになって罪悪感を植え付けようとする人もいる。自分が謝罪して楽になるのが許せないと頓珍漢なことを言って憚らない人もいる。告発者の「お気持ち」にフリーライドして加害者を誹謗中傷する性被害経験者など掃いて捨てるほどいる。
要するに、彼らは被害者で居続ける人生の選択をして、加害者をコントロールしようとしている。もっと言えば、二度と関わりたくないはずの加害者に依存し、加害者なしでは生きられないようになっている。そういう"元被害者"たちの姿を見ると哀れさを感じる。

"元被害者"の「答え合わせ」はネットの至る所で見かける。たとえば、Colabo代表の仁藤夢乃氏は不正会計を巡って住民訴訟され東京都や民間からの補助金を打ち切られた。あるいは、荒野行動で知り合った男子小学生とわいせつ行為に及んだシングルマザーは過去にDV被害を受けていたという。また一般によく知られているように、毒親から虐待被害を受けた人は親になると同じことを子に繰り返す。被害者はいつの間にか加害者になっている。
こうなる理由はひとつしかない。"元被害者"が更生してないからだ。被害者は必ず加害者になることは依存症治療の文献で明らかにされている。

"元被害者"にもまた、加害者と同様のスピリチュアルプログラムによる治療が必要である。加害者が被害者に対して償いや埋め合わせができる(神から資格を得られる)のはプログラムの後半であるが、被害者への埋め合わせはゴールではないとある人は語っていた。個人的には、埋め合わせとは「加害者と被害者の関係」を手放して新しい関係を始めることだと思っているが、相手への奉仕などによって愛を与えること(プログラムの提案)はまさにゴールではなくスタートなんだと思う。そしていま苦しんでいる被害者への本当の埋め合わせは、スピリチュアルプログラムへ繋げるアウトリーチなのではないかと思う。
最終的に赦し赦されるのが建設的な人生であり癒やしなんだということで、その話の場は一致した。

私が今やっているのは、プログラムの中盤の被害者に向き合う段階である。そしてそのあと、私自身の過ちを認めてそれを取り除き、埋め合わせの段階となる。それが受け入れられるかどうかはわからないし、性被害者となれば絶対に受け入れたくないであろう。それはそれで仕方ない。しかしそれで私の回復が妨げられるものではない。ただ、プログラムの提案に従わなければ回復という責任を果たすことはできないので、やらないという選択肢は存在しない。

繰り返すが、それに応じるかどうかは相手に委ねられているゆえに、相手が自分の人生の選択を迫られることにもなる。
私が傷つけてしまった人の中には、その後私に対して虚偽告訴といった危害を加えた人がいるし、3年以上も粘着してくる人もいる。だからといって彼らに対しての埋め合わせは(できるかどうかは別にして)避けてはいけない。
そうなれば私と本人達の問題に対して横槍を入れたり、私が埋め合わせをするべき人たちの味方をして妨害工作をする人がいるだろう。それが拡散されれば私の回復に対してどんな暴言が飛び交うかはわからないが、その中には性被害経験者もいるだろう。もしそういう風に被害者に加担する人が仮にいるとするなら、彼らに言いたいことはタイトルの通りである。あなたは如何にして「答え合わせ」を行いますか?と。
何に対する答え合わせか、それは人が人を裁くことに対するものである。偏った物差しで他人をジャッジすることに執着すれば、その報いから逃れることはできない。

その答えは神のみが知る。
私の回復と責任の取り方は神に委ねるのみである。


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