障害のせいにしたら心が楽になった話

一昨日、待ちに待った心理検査(WAIS-Ⅲ)の結果が出た。
12月に精神科へ行き始め、ADHDとアスペルガー症候群の傾向があると言われて検査となった次第だ。

検査結果

結論から言うと、ADHDではないようだが、ASDの傾向があるようだ。

各項目については、このツイートのイラストがわかりやすい。

僕の場合、処理速度と(数字には表れてないが)言語理解が特に苦手で、作動記憶が得意。IQ差は56。
とにかく言語に関する限り扱うのも理解するのも苦手。ただし覚えることは得意。なので「わからないことがわからないから質問も疑問もなく、日単位であとから理解する」
ということだ。
だから自分の認識と相手の認識のすれ違いが頻発する。

他人の気持ちが理解できないのも仕方ない。
まあ、自分も他人も見えない刃を見ようとしなかった相手に「人を傷つける致命的に最低な考え方」などと言われる筋合いはないがね。

「障害のせい」は自分を受け入れること

初診の時からこれは思っていたが、定型発達にこれの意味を間違えている人が多すぎる。自分にとって、障害はもはや尊厳である。
トイレを我慢できず粗相してしまった時に「我慢できなかったのをトイレがないせいにするな」というトンデモ理論を言う人がいないのと同じことだ。
「障害のせいにするな」は、障害者の尊厳を踏みにじる言葉だ。

そんなわけで、一旦「障害のせい」にすることで、初診からWAIS-Ⅲの診断結果まで逆境に耐えてきた。それでも自分が定型発達だと思っていた頃に比べれば非常に大きな進歩だった。

自分にとっての母親は発達障害だった

何を言ってるのかわからんと思うが、要するに「失敗しても障害のせいにできるから頑張れる」
つまり
「障害そのものはどんな自分でも無条件に受け入れてくれる母親のような存在である」
ということだ。

これに気づいたのが今朝だ。処理速度が遅くて2日遅れで気がついた。
これに気づいてから本当に楽になった。今までパフォーマンスが発揮できなかったのは全部障害のせいで、悪いのは自分じゃないので落ち込んだり自分を卑下したりする必要はないのだ。
障害のせいにするのは自尊心を育むためであり、自分の行動に責任を持つことは障害のせいにすることとは全く関係ない。そう思ったらなんでもできるような気さえする。

発達障害という概念に人格があるとするなら「失敗してもあなたのせいじゃないから頑張りなさい」と励ましてくれると思うのだ。実際には発達障害には人格はない。だから障害のせいにできるのだ。まったく便利な考え方である。

「障害のせい」は
「無理しないで休め」
「何か工夫してみよう」
「失敗しても大丈夫だよ」
といった意味合いが含まれていると思う。というか都合よくそう考えてる。それがアダルトチルドレンからの回復でよく言われる「自分で自分を愛する」ということなのだろう。


さて、余談になるが、僕にご高説を垂れた健常者は、わざわざエゴサして僕のTwitterのサブ垢を見つけてブロックしてくれたようだ。
彼女はそうして僕の喧嘩を買ってくれた以上、手を抜くことは相手に失礼だ。絶対に容赦しない。
あなたは喧嘩を買ったのだから何を言われても文句を言う資格はないのだ。覚悟しておくように。
その思い上がった考え方を、僕の生き方で幸せになって完膚なきまでに粉砕してやろうじゃないか。

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