停滞の中での決意

さすがに疲れている。数年ぶりに口唇ヘルペスが出た。痛みというのは苛立ちやだるさにもつながる。

論文を書くのは、実は博論ベースに単著を書いていた2017年度以来だ。

はっきり言ってしまうと、もうずっと、常勤職に就くためのくだらない応募書類(基本的に書式は大学によってまちまちだし、「抱負」とか「シラバス」などを、まちまちの字数で要求してきたりする)ばかり書いていた。1件応募するのに1ヶ月丸々使うこともザラ(その間に、仕事と子育てとあれこれあるわけで)。2017年は、公募情報を見ないようにして単著執筆に集中しようとしていた(が、子供の保育園のことがあって、研究を続けるために任期付きの一件に応募し、4年ちょっと食いっぱぐれずに済んだが、たくさんの地獄も同時に見た)。

研究費をゲットするための申請書は、嬉々として書けるが(ワシの研究計画がいかに将来性があり、実現したらいかにおもしろく新しい発見満載かを、分野外の人にもわかるように懇切丁寧に説明するのはさほど苦ではない。自分の研究のおもしろさを再確認する機会でもある。しかし、「ある組織に合わせた人格を作り出して、組織に合うように書類を作る」というのは苦行以外の何者でもない。

そんな書類たちばかりを書いてきたので、ずいぶんと論文執筆の勘が鈍っている。速筆が自慢の私であるが、今回ばかりは・・・。速筆なのだけど、「なんかこのボヤッとした感じにしか書けないのをどうにかすべきなのに、妙案が湧いてこない」。いつも通り、思いついたところから書いていっているので、今書いているときに別の章のことが思いついて、そっちに飛んでメモを書いたりもしているのだが、そのせいで議論が散りすぎてしまうこともある。

しかし、なんとか踏ん張って、自力で書き上げるつもりだ。院生時代は、同期や先輩後輩と「読み合わせ会」なるものを開いて、草稿を持ち寄ってブラッシュ・アップしようとしたものだ。だが、それが私に合っていたのかというとそうでもない。明らかに「人に見せて人の意見を素直に聞いて失敗した」こともある(まあ、失敗したのは論文ではなく口頭発表でだが。自分でも「それでいいのか?」ひっかかっていたが、アドバイス(クソバイス)を信頼しきってしまい、そのまま発表したらその部分に集中して突っ込まれた。でも「その人に言われたから」などというのは恥ずかしすぎるので、自分が考えたことにした。当時はクソバイスによる失敗は自分の失敗、ほぼ自力で考えたところだが少しでも助言されたことなら、助言されたことを少し盛って話す・・・多分、優秀な研究者なら私とは真逆のことをやるだろう。なおクソバイスをした人は、巷では「優秀」で通っていた人だった)。

目が覚めたのは、負の環境を断ち切って、自己肯定感を高めたせいでもあるが、ここ数年、YouTubeで芸人さんの話をいろいろ聞いたからだと思う。

誰が言ったか忘れたが、某養成所での「ネタ見せ」は、果たして有効なのかどうかという話だったと思う。「ネタ見せ」して、「偉い人」にズタボロに言われて、そのネタをお蔵にしてしまうこともある。しかし、めげずに舞台でかけてみると、お客さん大ウケという結果もあったりする。

多分、ネタにもよるだろうし、人それぞれでもあるのだろうが、多分私は「見せないほうがよい」部類に入ると思う。

笑いたい、楽しみたいと思う人の視点と、評価を前提にした視点とは明らかに違う。分野にもよるだろうが、私が院生の頃、周りにいた人はみんな後者だった。少なくとも私にとっては。

だからもう、評価したがる人に向けて発信はしない。

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