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【自立女性の先駆者から学ぶ】

今回は“自立女性の先駆者
として取り上げるのは

江戸時代後期の浮世絵師【葛飾応為】

葛飾応為ってまずはどんな人?
葛飾 応為(かつしか おうい、生没年不詳)は、江戸時代後期の浮世絵師。葛飾北斎の三女。応為は号(画号)で、名は栄(えい)と言い、お栄(おえい、阿栄、應栄とも)、栄女(えいじょ)とも記された。

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そんな葛飾応為の父葛飾北斎と言えば世界的にも著名な画家である。歴史的人物としても“森羅万象”を描き生涯に3万点をも超える作品を世に出した人物でもある。

そんな葛飾北斎の娘である
“葛飾応為”
実は北斎の3女である応為は北斎の制作助手をもしていた程の腕前で、
実は北斎の春画においても彩色を担当したとまでされている。

北斎は「美人画にかけては応為には敵わない。彼女は妙々と描き、よく画法に適っている」と語ったと伝えられている
「女子栄女、画を善す、父に従いて今専ら絵師をなす、名手なり」と評している。

そんな“葛飾応為”とはどんな女性なのか?
当時の江戸時代はまさに“男性社会”そのもの。
今と違い昔の方が縛られていた時代の中で自分を貫く。そんな女性なようで男性的な生き方。

今回こちらの本から
自立女性の先駆者葛飾応為”という女性について話していきたいと思います。

父葛飾北斎には2人の妻、
そして6人の子供がいたとされていてその中でも3女の応為に対しては特に愛情を注いでいた。

そんな応為は


父の北斎に似る面が多く、やや慎みに欠いたという。男のような気質で任侠風を好み、また衣食の貧しさを苦にすることはなかった。絵の他にも、占いに凝ってみたり、茯苓を飲んで女仙人になることに憧れてみたり、小さな豆人形を作り売りだして小金を儲けるなどしたという。北斎の弟子、露木為一の証言では、応為は北斎に似ていたが、ただ煙草と酒を嗜んだという。

そしてなんと言っても
応為という女性は周りから見ても“ブサイク”と言われる程だったとも言う。

応為が14歳の時父北斎からは
北斎は応為に醜い顔だと言い、エラが張って角ばった顔で節くれえみたいに飛び出してやがる。

と直接父に言われていた。
そんな応為は幼い頃から父の元でずっと絵を描くことに集中し、こんな醜い自分とは遊ぶ友達なんかいない。
とより絵を描くことに対して強い思いを抱いていた。

その当時の女性は女が正式に存在すること自体が認められず、奴隷的で自分たちの存在を他者への服従によって肯定しているかのような世の中で“葛飾応為”という女性は自分の意思を持ち父親の手伝いをしていた。

そして北斎が認めるほどの絵師になり
父の名で絵を売っていたほどである。
実際に、北斎が80を過ぎてから描いたとされる絵の殆どが応為が描いたものだとも言われている。

ただその反面で応為の母は
「いつになったら嫁に行くんだよ。女はね、嫁に行って子供を産むのが勤めだよ」

と常日頃言われている中でも自分を貫く姿勢。

ただその中で父北斎の元で働きながら
このまま父の元で手伝いとして絵を描く中で

私は何になりたいのだろう?
何をしたいんだろう?
絵師になりたいのか?
絵を描きたいのか?
自分が嬉しい時は?
楽しい瞬間は?

と自問自答を繰り返し違う自分を考えたり取り繕うのではなく私という人間を認めてあげること。
自分自身に問い自身で自らの手で手がけるほどにまでになり絵師“葛飾応為”としての名を江戸時代に残した。
北斎のように歴史に名を残す人物ではなかったものの、今の時代とは全くかけ離れた男性社会の中での1人の女性としての生き様。

“葛飾応為”

という1人の女性の人生のストーリー
自らの苦難とそこでの日々の生活と仕事の間で“本当に自分が目指しているものは?”
と女性だからというのを全く気にもせずに歩む
江戸時代の中でもがきながら突き進む姿勢。


人は前を向いて歩こうとしないと、いつか後ろ向きになり、過去の良かったことや楽しかったことを思い出すだけになる。
一旦、後ろ向きになると、何かおかしい。
何か変だと思っても人は簡単には前には踏み出せない。

と最後に語っている。

“自立した女性の先駆者”

女性なら是非一度は見てほしい本ですね。

今日もここまで読んで頂きありがとうございました。




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