【エッセー】自分の"地元"と「地元」
「地元」って聞くと、なんとも言葉にできない気分になる
「地元」はホームタウンで、旧友や家族と会える土地
そう思いたかった
でも、私にとって「地元」は黒歴史の詰め合わせみたいなもので
嫌悪感を抱く場所だった
何もできなかった自分 周囲への働きかけを諦めた自分
家族を受け入れられなかった自分 自分を受け入れられなかった人たち
そして、当時大事にしたかったものを壊した自分
自分や家族について語る度、絶えず言われてきた言葉がある
「自分を許して」
意味がわからなかった
自分が発する言葉の背景を考える必要なんてないと思ってたから
最近、『街場の大阪論』という本をつまみ読みした
ちなみに、内田樹氏などの『○○論』のパイオニア本らしい
(本著カバーらへんにその記述があった記憶が…)
そこには、粉もんやお笑いといったド定番な大阪の背景にある人々の営み
大阪に暮らす市民のありふれた、だが大阪たるディープな日常があった
2009年出版ではあるが、いきずぎた資本主義に触れた記述もあり
おおよそ2011年の震災以前のものとは思えなかった
特に目を引いたのが、大阪のドヤ街・西成地区の記述だった
以前、別の記事で触れたゲストハウスがある一帯のこと
大阪の実生活を表す場の1つ
しかし、その情報が流れてくることは少ない気がする
最近は、比較的カジュアルに流れている気はするけれど
▼くらげバンチで連載中のルポ漫画
少し話が脱線してしまったけれど...
今の今まで、「地元」というものを知らず
自分の"地元"を「地元」として接してきた
でも、「地元」を知る中で、理解した
「地元を見ず、与えられた贅沢な環境で駄々をこねてただけなのでは?」
そうやって、自分を責めてきたことを
それが「自分を許して」という言葉の意味だということを
それが「地元」への後ろめたさになっていることを
その選択が、当時の自分にとってベターなものであれど
だが、後ろめたさは、自分の視点だけで物事を見ていたから
あまりにも身近な世界「地元」に対して無知だったのだ
知れば知るほど、「ごめんなさい」という気持ちになる
だって、「地元」で日々を営む生活者が見えていなかったのだから
嫌悪感も後ろめたさも、この際全部捨てよう
皆、その人なりに生きていて、それだけでいいんだから
今度、「地元」をゆっくり歩いてみよう
まだ知らない、身近な世界、人々と出会うために
もう、自分を許してもいいよ
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