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ポール・バニヤンの驚くべき偉業

※仮訳ですがだいたい読めるようにはなっています。後で訳文を訂正したり手直ししたりして読みやすくします。他にもいろいろとお話を付け加えてバニヤンオンリー本としてAmazon専売書籍として発売します。どんな仕上がりになるかは先に発売した『ビリー・ザ・キッド、真実の生涯』を参考にしてください。他にも『ジェロニモ自伝』も発売中(リンク先はAmazonの販売ページ)。勉強会については以下のツイートを見てください。

木こりたちがメインからカリフォルニアまで北の森を切り開く間、ストローブマツの木こりたちのキャンプで代々語り継がれてきたポール・バニヤンの驚くべき偉業

さまざまな出所から集めて出版のために脚色

W・B・ラーヘッド

レッド・リバー・ランバー社によって友人たちの楽しみのために刊行

ミネアポリス、ウェストウッド、カリフォルニア、シカゴ、ロサンジェルス、サン・フランシスコ

1922年


ポール・バニヤンは木こりのキャンプにおける与太話の英雄であり、代々受け継がれてきた。そうした話は近年まで木こり界隈の外で聞く機会はなかったが、ポール・バニヤンが「唯一のアメリカ人の神話である」と主張する優れた教育者たちと文学の権威たちによって今回、収集されることになった。

最高の権威たちは、語り継がれてきたポール・バニヤンの偉業についてこれまで言及することはなかった。彼らは、すぐにそれを取り上げることによって、まるでよく知られている実際の出来事に言及しているかのように彼らの主張をより厳粛なものにした。飯場の新参者や居酒屋にいる半端な労働者やずっと同じ所で働く労働者を恐れ入らせるために、木こりたちはポール・バニヤンのキャンプで互いに会ったことを思い出す。入念な正確さで彼らは、「青い雪の冬にビッグ・オニオン川で」や「ソアードウの牛追いの年にタッドポール川のほとりのショット・ガンダーソンのキャンプで」などと正確な場所と時を断言した。彼らは古い話題を苦心して作り上げ、切磋琢磨の中で新しい話が生まれ、突発的に発生する創出は高みに達した。

こうした話の中で木こりは、フランス系カナダ人のような独特の様式をしばしば採用した。それは地元民の誇張があっても、彼らの言葉が真面目ぶっていることやもっともらしい話が尻すぼみになっていることといった共通点を除いて、特定の意図や理由にもとづいておこなわれたわけではない。研究者の中には、ポール・バニヤンの起源が東部カナダにあると確認した研究者もいる。そんなことは誰にもわからないだろう。

カリフォルニア州ウェストウッド付近の林道、ストローブマツと昔ながらの冬はポール・バニヤンによって居心地が良いものだった


この地域の最も有名な木こりたちによれば、ポール・バニヤンはカリフォルニア州ウエストウッドに1913年にやって来た。レッド・リバー・ランバー社がサトウマツとモンチコラマツの森を切り開く計画を発表した時、親切な助言者が頭を振りながら「ポール・バニヤンを送るのが良いだろう」と言った。

それは質といい量といい大規模な仕事であり、克服しなければならない技術的困難も大きく、超人にうってつけの仕事だった。どうしてポール・バニヤンでなければならないのか。これはストローブマツを伐採する仕事であり、険しい山岳地帯では冬になると、ボールが育った地域と同じく深い雪が積もる。ここには五大湖周辺地域にある最大の「コルクマツ」でさえ小さく思えるほどの木々があって、最高級の木材を伐採して生産するためにたくさんの新しい仕事が計画された。そうした仕事はまさにポール・バニヤンにぴったりであった。

レッド・リバーの人々は、2世代にわたってミネソタのストローブマツを切ってきた。彼らとともに西からやって来た仲間たちは、安定した人生を築き、誰もが年老いたポール・バニヤンを知っていた。ポールはストローブマツをたどって大西洋沿岸からミネソタにある西の飛び地まで行ったが、そこからさらに進まなかったわけがない。

レッド・リバー社に加わるまでポール・バニヤンの絵は刊行されず、この肖像は1914年に初めて刊行されて今はレッド・リバー社のトレードマークになっている。ポール・バニヤンと同等の品質とサービスを期待できることを示している。

この神話的な英雄はどこでいつ生まれたのか。ポール・バニヤンはその力強い仕事で知られている。彼の素性と経歴は不詳である。ノースダコタにはマツの森が跡形もないという事実や確かにそれを見たという老人の証言からボールが遥かノース・ダコタで伐採して切り株を掘り返していたとわかるだろう。その一方、ポールの親と生まれた日付はわかっていない。彼はひとりでに生まれてひとりでに育った。

教授たちが彼について調べるまで誰も彼の出自について気にかけなかった。彼がキャンプの周りにいる限り、彼のこれまでの経歴はいつも敬意とともに扱われ、質問が投げかけられることもなく、彼が仲間たちの間に割って入るとそうした敬意はすべて取り払われた。では彼の先祖、誕生日、そして、あらゆる重要な記録について触れておこう。というのは今やポールは定番の神話として認められていて、民話の学徒はポールバニヤンの伝説について科学的な研究をおこなっているからである。

ニュー・ヨーク州立林業大学とシラキュース大学の林野学の教授であり、ポール・バニヤンの権威であるR・R・フェンスカは以下のように書いている。

彼はすべてのアメリカ人の神話であるだけではなく、わかっている限りではこの国で唯一の神話であり伝説である。それはすべてのアメリカ人のものである。なぜならポールの偉業はすべてこの大陸においてなされたものであり、旧世界において匹敵するものがないからである。ポールの起源はほぼ神話や伝説の類である。彼が19世紀の初期に北東部の森林で知られていたと思っている者がいるようだが、利用できる最善の証拠からすれば、五大湖周辺地域のマツの森林がポール・バニヤンの『母』だと考えられる。[18]80年代から[18]90年代にかけてそうした地域で彼の力の絶頂を迎えたことは確かなことである。

フェンスカ教授は、ボールが「北部人」であると指摘している。というのは、五大湖周辺地域の原生林が後退し始めた時、木こりは南部のダイオウマツの地域に移ったが、彼についてほぼ10年間ほとんど何も伝わっていないからだ。太平洋沿岸で彼の姿が目撃されたことはなく、この権威は、ボールがアラスカまで行ったという噂を否定し、彼の偉大な業績が西部の広大な森林で起きたという見解を示している。

オレゴン州ポートランドにあるリード大学英語学部のエスター・シェパードは、ポール・バニヤンの伝説をメインまでたどったが 、メイン州の創立よりもその起源が先である証拠を見つけ、源流を求めて困難な探索を続けている。『パシフィック・レヴュー誌』にシェパード女史はパールの幼少時代に関する話を寄稿している。

ポール・バニヤンはメインで生まれた。生後3週間目、彼は眠っている間に転がって4マイル[6.4km]四方の立木を破壊した。そこで彼のために宙に浮いた揺り籠が作られ、イーストポートに繋がれた。ポールが揺り籠に入れられていたせいでファンディ湾に75フィート[23m]の高波が起き、いくつかの村が流された。イギリス海軍が召集されて7時間にわたって片舷斉射をおこなうまで彼は目を覚まさなかった。揺り籠から出た時、ポールは7隻の軍艦を沈めたので、イギリス政府は彼の揺り籠を接収してその木材を7隻の軍艦を新造するのに使った。そのおかげでノヴァ・スコシアが島にならずにすんだが、ファンディ湾の高波はいまだに鎮まっていない。

パシフィック・ランバー社のJ・M・リーヴァーはサン・フランシスコのある新聞に以下のように書いている。

この北アメリカ大陸は完全に独自の神話を一つしか持っていないので、それが忘れ去られる危険に置かれていることは残念なことだ。

フェンスカ教授とオレゴン大学の業績に敬意を払った後、リーヴァー氏は以下のように続けている。

この斧持つデイヴィー・クロケットにしてキャンプの超人の伝説がどこで発生したのか正確なことを言える者は誰もいない。しかし、彼の勇敢で信じがたい功業はセント・ローレンス川流域のフランス系カナダ人の間で始まり、アディロンダック山地の森林、ミシガン、そしてウィスコンシンに浸透した。時に人間臭かったが、ポール・バニヤンは重要な時において古典的なスカンジナビアやケルトの伝説的な人物の誰よりも優れていた。この国の若者のために彼に関する記憶を永遠に新鮮に保つべきである。

リー・J・スミスはシアトルの『スター紙』に「ポール・バニヤン」というコラムを掲載して、老人たちからの多くの面白い寄稿作品を公表した。それらはワシントン大学に保存のために寄贈された。スミス氏は社説で次のように言っている。

力と創意工夫の才能で際立っているのがポール・バニヤンであり、アメリカの乏しい民話の中で中心的な人物である。開拓者たちの間だけでポールの話は広まり、彼の功業は野外でのみ育まれるような想像力によって命を吹き込まれた。1回当たり数時間にわたって木こりたちは彼らの英雄の業績を積み上げたのだろう。それぞれのお話はもっと英雄的な話を求める挑戦であった。うまく笑いを誘える話し手は芸術家であり、ポール・バニヤンの伝説はいつも真剣に語られ受け止められたに違いない。ポール・バニヤンは木こりたちの日常生活の一部になっている。あらゆる困難と大変な問題に滑稽な側面を与えるうえで彼は重要な役割を果たしている。

カリフォルニア州ユーリカのハリー・L・ニール・アンド・サン鉱業のハリー・L・ニール氏は林業史の学徒であり、「林業の創出」という言葉をポール・バニヤンと関連づけて使って、以下のような事実があると指摘している。メイフラワー号がプリマス・ロックに到着する前、現在、 メイン州として知られている場所で「国王の木材」を切り出すことから産業が始まったとニール氏は言って、さらに「独立した産業としての近代林業は1790年にニュー・ヨークで始まり、昔の大部分の木こりたちの先祖はこの人形の始まりまでたどることができる」と述べた。レッド・リバーの人々は、ウォーカーという者が1680年に製材所を建設したことをニール氏から学んで関心を抱いた。また別のウォーカーが1716年にこの製材所の権利の3分の2を売却した一方、3人のウォーカーは1785年にニュー・ハンプシャーで製材所を所有していた。ニュー・ヨークとペンシルヴェニアのマツの伐採人について調べたニール氏は、土地台帳を見ると、「硬木が育つ場所に農地を求めるためだけにやって来たプファルツの入植者」によくある名前を拾えるとわかった。ポール・バニヤンの話は産業の発端に遡ることができるというのがニール氏の考えである。ニール氏は、ペンシルヴェニアの祖父の伐採キャンプでそれを聞き、ポールと初期の伝説を結びつけるものとして祖父を引き合いに出している。

ポートランドの『オレゴニアン紙』の「コラム執筆者」デウィット・L・ハーディーが数ヶ月にわたってポール・バニヤンの連載を展開すると、ほぼ毎日掲載しても印刷しきれないほど多くの寄稿を受けた。ハーディー氏は次のように書いている。

ポール・バニヤンは、民話の専門家があなたが伝えるように、我々がこの国で持つ唯一の本当の物語の人物である。私は、いかなるものであれ成立背景を探るような研究をするつもりはない。私のポールとの経験はまさに実地的なものだ。私が彼について初めて聞いたのはノース・ダコタの芝土の小屋の中だ。そこで私は彼のすさまじい伐採作業について聞いた。彼はその地域を丸裸にして切り株をすっかり取り除いた。ポール・バニヤンの話を扱っていた間に私が受け取った多くの手紙の中には、地球上のあらゆる場所やあらゆる階層の人々から届いた回答があった。

オレゴン大学修辞学部の教員であり、オレゴン英語委員会委員長であるアイダ・V・ターニーは、ポールバニヤンのお話をまとめた呼び売り本『労働者の伝承』を書いた。ターニー女史は、「神話」、「伝説」もしくは「民話」とは分類できない専門的な理由について述べている。

それは明らかにアメリカらしいものです。そのような文学の類型を他のどのような国も踏み出していません。というのは、少なくとも私が考える限り、偉大な国の発展において肉体的な勤労の力強さについて象徴的に示されているからです。もちろんそのようなシンボリズムは無意識なものであり、まったく精緻なものではありません。

ターニー女史は木こりの娘であり、子供の頃からそうしたお話を知っていた。彼女は以下のように言っている。

ポール・バニヤンのすべてのお話は仲間内から始まり、他の者たちが模倣しました。[中略]。おそらくポール・バニヤンはアメリカの偉大な叙事詩です。しかし、もしそうだとしてもそれは今も作られているのです。したがって、仲間になれば誰でも新しい話を作る完全な権利を持っていると思います。[中略]。ポールは西部で驚くほど器用になりました。ミシガンやウィスコンシンのキャンプにいた昔の労働者たちが遭遇する荒事に何でも手を広げていたように、彼は自分の手で何でもこなそうとしました。

青い雄牛のベイブはポールバニヤンの持ち物であった。ボールが最初にこの鈍重な歩行動物をいつどこでどのように入手したかについて定説はないが、その後の記録については信頼できるものである。ベイブは両端があるものであれば何でも牽引できた。

ある権威によれば、ベイブの眉間の広さは斧の柄7本分である。同じく他にも信頼できる者は、斧の柄42本分とタバコ1本分と言っている。こうした矛盾は、他の歴史的矛盾と同じく異なった尺度を使っていることから生じている。ポールの斧の柄7本分は、普通の斧の柄42本分にほぼ等しい。

ベイブに対して原価計算表を作成しようとした時、ジョニー・インクスリンガーは、維持費と経費が高額だが作業代と減価償却費が低額であり、非常に効率が良いと気づいた。他のどのような手段でポールは全地域(640エーカー[260ha])の丸太を木材集積場まで運べるだろうか。また彼はベイビーを使って曲がりくねった林道からねじれた木を引きずり出すために使った。こうした作業の中でベイブはまっすぐな棒に繋がれた3インチ[7.5cm]の鎖を牽いた。

彼らはベイブを一晩以上とどめておけなかった。というのはベイブは、1人の男が一年にキャンプに運べるすべての餌を1日で食べてしまうからだ。食事の間のおやつとしてベイブは干し草や藁を50梱も食べ、トビを持った6人の男たちが忙しく歯の間から藁を取り除いた。ベイブは大きなペットであり、たいてい従順であったが、ユーモアを解しているようであり、しばしばいたずらをした。ベイブはこっそりと道筋から離れて川の水をすべて飲み尽くしてしまって、丸太を岸に乗り上げさせて乾燥させてしまった。ベイブに蹄鉄をはめるために地面から吊るし上げられるような大きさの紐は作れなかった。しかし、ダコタまで伐採に行った後、彼らはこの作業のためにベイブを横たえられる部屋を作った。

いったん逃げ出すと、ベイブは一日中、北西部地域をさまよった。ベイブの足跡は[一つひとつが]あまりに離れていたので追跡することができず、あまりに深かったのでそこに落ちた男は長いロープを使ってやっとのことで這いずり出せた。ある時、入植者とその妻と赤ん坊が足跡の一つに落ちた。息子が[足跡から]出られて事故を報告したのは57歳の時だった。現在、こうした足跡は「スカイ・ブルー・ウォーターの地」にある数千の湖となっている。

ベニーがキャンプにやって来た時、まだ子牛でベイブよりもはるかに幼かったので、かなりずんぐりしていたとはいえ、小さな青い王子といつも呼ばれていた。 ベニーはベイブのように大きな荷物は引っ張れなかったし、従順ではなかったがベイブよりもたくさん食べた。

ポールはメイン州バンゴールの農夫からベニーを無償で手に入れた。子牛のためのミルクが十分になかったので、ベニーは生後3日で乳離れさせられた。農夫は干し草を40エーカー[16ha]しか持っておらず、ベニーが生後一週間になった時、食料が不足したために人手に渡さなければならなくなった。子牛は栄養不足になってしまったせいでボールが入手した時にはわずか2トンの体重になっていた。夜にポールは、橇の後ろにベニーを従えてバンゴールからノース・ダコタのデビルズ湖のそばにある本拠地のキャンプに向かった。西部の空気が子牛に合っていたようで、ボールが後ろを振り返るとベニーはさらに2フィート[0.6m]も大きくなっていた。

キャンプに到着した時、ベニーはバッファローのミルクとホットケーキをたくさん与えられ、自分で納屋に入った。翌朝、納屋がなくなっていた。後にベニーが背中に納屋を載せて開墾地を走り回っているのが発見された。一夜でベニーは納屋よりも大きくなってしまった。

ベニーはとても気まぐれであり、もし雪がなければ荷物を引っ張ろうとしなかったので、春の雪解けの後、ベニーを騙すために林道を白くならなければならなかった。

ベニーは貪欲のせいで死んだ。グラトニーは200人の調理人の1人であり、ホットケーキが大好きであり、ベニーのためにホットケーキを作っていた。ある夜、ベニーは前足をかいて、うなり声を上げて、ポールがダコタに立ったまま残してきたマツが倒れるくらいの風を尻尾を振り回して巻き起こした。朝食時に調子に乗ったベニーは、調理人の小屋を壊してホットケーキを平らげ始めた。食欲があまりに強かったのでベニーは赤く焼けたストーブも呑み込んでしまった。 消化不良が起きてしまったが、ベニーを救えるものは何もなかった。ベニーの遺体がどのように処理されたかについて議論の余地がある。ある老人は、自分が働いていた牧場が1857年に遺体の臀部を買い取って塩漬け肉を作ったと主張している。彼は、貨車数両分の塩漬け肉が貯蔵されていたと思っている。

他の権威によれば、ベニーの遺体はノース・ダコタのキャンプからかなり離れた場所に運ばれて埋葬されたと言われている。地中からそれが掘り起こされた時、その土が積み上がってサウス・ダコタのブラック・ヒルズができた。

ブリムストーン・ビルは、大きな青い雄牛であるベイブの保護者にして付添人であった。ビルは、元気に飛び跳ねる巨牛がどんないたずらをするかすべて事前に知っていた。

老牛飼いは「俺は雄牛のことをよく知っている。雄牛たちが生まれて以来、俺は奴らを働かせ、奴らに餌を与え、それから奴らのことを診てきた。それでベイブについてもずる賢い奴だとよく知っているし、ランターンを使って隅から隅まで調べたようによく知っている」と言っていた。

ビールは牛飼いのために『皮なめしのための辞書』という本を書いた。(ラバを除く)家畜を管理するのに使う専門用語の大半は彼がもとになっている。聖書で言及されている場所や人々の名前が牛飼いの専門用語に非常に多く含まれているのは、彼が幼い頃に宗教的な訓練を受けたという事実による。

雨が降った時にベイブとベニーが使っていたシカ皮の牽引具は、ブリムストーン・ビルが作ったものだ。この牽引具は濡れるとかなり伸びたので、雄牛は木材集積場まで楽に移動でき、積荷が森林の中にある運搬路から外れることはなかった。[鍛冶屋の]ビッグ・オールが作った留め具を使ってブリムストーンは牽引具を固定した。太陽が姿を現すと、牽引具は縮んで、ビルと雄牛が他の作業で忙しくしている間に積荷を木材集積場まで[自動的に]運んだ。

青い雪の冬、太平洋が氷結したのでビルは、中国から普通の白い雪を運ぶために雄牛を忙しく働かせた。その冬にビッグ・オニオン川のほとりでポールのために働いていたM・H・キーナンは、それが本当のことだと証言している。ビルがクランベリーの木から雄牛の軛を初めて作ったのはきっとこの時だろう。

ポール・バニヤンの仲間たちを食べさせることは大変な仕事だった。二つのキャンプだけでも条件は同じではなかった。はるかノース・ダコタで伐採していた冬、ポール・バニヤンは7人の木こりのためにパンケーキを作る料理人を300人と助手を1人雇っていた。ビッグ・オニオン川の本拠地でポール・バニヤンは、仲間たちを食べさせるために1人の料理人を462人の助手を雇っていたが、あまりに数が多かったのでポール自身もいったい何百人雇っているのかわからないほどだった。

ビッグ・オニオンのキャンプでは、たくさんの料理器具があって、具合の悪い点は機械工のように器具を扱える者しか調理できなかったことだ。ある料理人は小麦粉の袋と根菜類の貯蔵室の間で迷ってしまって、発見される前に餓死しそうになった。

料理人たちは行ったり来たりした。料理人の中には優れたものもいたが、かろうじて何とかやっていけるだけの者もいた。ポールは劣った料理人を長く雇っておかなかった。お湯を沸かすことしか能がないように見える者がいた。彼は何からでもスープを作り上げ、ひしゃくとともに大部分の作業をこなしていた。ブル・フロッグ湖の氷上でさやを剥いた干しエンドウを大量に積んだ橇が壊れた時、彼は仲間たちが満足するまで温めた湖水を配った。彼は弁当箱を思いついた。それはロープの周りでスープを凍らせて蝋燭のようにするというものだった。料理人の中には油を大量に使う者もいた。料理人の中の1人によれば、料理小屋から飛び出ないように靴底に滑り止めの釘がついた靴を履いたり、何か物を取る時に手に砂をすりつけたりしなければならなかったという。

料理人たちはベイキング・パウダー[ふくらし粉]組とサワードウ[発酵させた生のパン種]組に分かれていた。サワードウ・サムは後者に属していた。彼はコーヒーを除けば何でも発酵させた生のパン種から作り出せた。彼は片脚と片腕しかなく、パン種の樽が爆発した時に他の部分を失っていた。ショット・ガンダーソンが責任者であった冬、サムはタッド・ポール川の本拠地で働いていた。

結局、その他の者たちがビッグオニオンのキャンプでうまくいかなかったので、ポールは3週間前にケベックからやって来たいとこのビッグ・ジョーを雇った。この少年は確かに最高の料理人だった。仲間たちに食べさせるためにパンケーキを十分な速さで作れるのは彼だけだった。彼は、鍛冶屋のビッグ・オールに グリドル[ 料理用の円いフライパン状の鉄板]を作らせた。それはあまりにも大きかったので煙が立ち込めている時は見通せなかった。コンクリートを混ぜ合わせるようにバターは円筒形の容器の中で混ぜられて鈎と注ぎ口を使って注がれた。足にハムを履いた黒人の少年たちがグリドルの表面を滑って油を塗った。熱に耐えられるような黒人の少年を雇わなければならなかった。

このキャンプではローラー・スケートを履いた給仕がいた。テーブルの大きさは、彼らが4頭立ての馬車に積んで胡椒を配っていたことからわかる。

3組の仲間たちによって求められる作業があまりに大変だったので時間に合わせて食事を提供することは非常に難しかった。1組が作業をしている間に、もう1組は作業に向かい、もう1組は戻っている途中であった。ジョーは、食事時の2週間前から昼食を積んだ馬車とともに雑用係を送り出していた。正午に男たちを呼び集めることはまた別の課題であった。ビッグ・オールが作った食事用の角笛はあまりに大きかったので、ビッグ・ジョーやポール自身の他に吹ける者がいなかった。ジョーが最初に角笛を吹いた時、10エーカー[4ha]のマツが吹き倒された。そのためレッド・リバーの人々はジョーがまた角笛を吹こうとした時、抵抗しようとしなかったが、すさまじいサイクロンが海で起きたのでポールはそれを投げ捨てなければならなかった。角笛は船で東に運ばれ、大きなユニオン駅の屋根に使われた。

バニヤンとともにウエストウッドにやって来た時、ビッグ・ジョーは何かを始めた。その頃、ずっと休火山であったラッセン山[ カリフォルニア州北部にある火山、1914年から1917年にかけて噴火]の噴火について新聞が報じた。それはまさにビッグ・ジョーが掘ったビーン・ホール[ 調理用の穴、その穴の中に焼け石を入れて豆を入れた陶製の鍋にゆっくりと熱を加えて調理する]があった場所であり、鍋にから出た煙が地面を這った時、誰もが古い丘を火山だと勘違いした。ジョーがビスケットを落とすと、地震が起きたといつも噂された。

カリフォルニア州ラッセン山、アメリカで唯一の活火山でビッグ・ジョーが豆を調理した場所

ポールのキャンプの食べ物の質は男たちの力強さと辛抱強さに大きく関係していると考えられていた。確かにその通りだが、 男たちはもともと頑強だったこともある。木こりが脳のために魚が良いと言う時は「土台が何もなければたいした効果はないさ」と言った。

プルーンの種を食べていたシマリスがとても大きくなってすべてのオオカミを殺してしまい、後年、入植者たちはトラと間違えてシマリスを撃ったという話があるから食物に関する理論には何か[根拠が]あるに違いない。

ポールのキャンプを訪問した者は、ある男が調理人の小屋で4頭の馬が引く橇から丸太を降ろすのを見て驚いた。煙が出ているはね上げ戸に向かって丸太を転がしているようだった。

彼は「何という場所に丸太を降ろすんだ」と言った。

雑用係は「丸太じゃないさ。御者たちの朝飯に使うソーセージさ」と言ってにっと笑った。

小ギムレット川がビッグ・オーガー川に流れ込む場所にあったポールのキャンプでは、新参者たちは豆が提供されないのでよく不平を鳴らしていた。[もともといた]親方たちや男たちは豆に興味を示さなかった。E・E・テリルはその理由について我々に次のように教えてくれた。

調理員が仕事を辞めてしまった時、男たちは一時的に代わりに仕事をする者を準備しなければならなかった。特に何も優れた点がない男が選ばれた。彼はあらゆる仕事でへまをしていた。クリス・クロスホール親方は、誰であれ何か良いところはあるという理論に基づいて、その男が調理人になるべきだと考えた。というのはそれが彼がまだ試していない唯一の仕事だったからだ。そこで彼は仕事をすることになった。最初に彼が取り組んだのは豆であった。彼は大きな鍋に豆を入れて水を少し加えた。熱が上がり始めると豆が爆発して屋根が吹き飛び、壁が飛び出した。さらに豆を調理する場所がなかったので、男たちは全員で3本調理されただけの豆を平らげることにした。それをずっと続けて1週間かけてすべて食べつくして調理人になるはずだった男を救出した。その後、豆のことを考えようとする者は誰もいなかった。

ポールのキャンプからプルーンの種とコーヒーの出し殻を運び出す仕事はとても大変だった。そうした仕事には多くの人手が必要であり、ベイブやベニーも牽引に駆り出された。そこでポールは、新しいキャンプを作る方が安上がりだと考えて毎月移転することにした。

はるかノース・ダコタでポールが7人の木こりとともに伐採していた冬、1人の助手と300人の料理人は食事ごとに3交代制で働かされていた。7人の木こりは大食漢であり、ベーコンだけでも1,600ポンド[700kg]の豚のあばら肉が必要であった。ポールはレッド川に外輪船を浮かべて、鍋に入れたスープを掻き混ぜさせた。

芸術家のように料理人は気まぐれであり、料理人の中には強情な者もいたが、ポール・バニヤンに口答えしながらもうまくやっていけるような人気者はビッグ・ジョーやサワードウ・サムしかいなかった。

昼食用の橇は、林業では非常に人気のある制度であった。ポールが昼食用の橇を発明して依頼、昼の集まりにそれが到着すると、あらゆる伐採作業に従事する空腹の男たちは大喜びで迎えた。もし温かい食事が皿の上で凍っていても、厳しい寒さのおかげで食欲が増せばそれを楽しめる。ポール・バニヤンのために昼食を持っていく仲間は遠くまで進まなければならないうえに食事の量が多かったので、昼食用の橇の上に料理人や料理道具など一切合切を持っていかなければならなかった。

[中略:2頁にわたってポール・バニヤンと無関係なレッド・リバー・ランバー社に関する話が続く]

伐採を始めた時、ポール・バニヤンはすべての道具を考案して独自の方法で作り出さなければならなかった。ポールが最初に持っていた財産はベイブと大きな斧だけだった。

ポールは地域の特徴に合わせて作業を進めたので、二つとして完全に同じ伐採作業はなかった。山中でポールは、曲がりくねった林道からさまざまな物をベイブに牽引させた。ビッグ・オニオン[のキャンプ]でポールは、一箇所の土地を木材集積所にする制度を始め、ノース・ダコタで7人の木こりを使った。

その当時、丸太に印をつけることは考案されていなかった。自分の丸太以外に丸太がなく、ポールは丸太を識別する必要がなかったからである。ボールが大西洋に向かい始めた頃、その他の者たちも林業に加わるようになったが、ポールと比べれば全員の分を合わせてもたいした伐採量ではなかった。それでも[丸太を]取り違える危険があった。ポールは多くの丸太を失う恐れがあった。

最初、ポールは自分の丸太から一部を摘み取って印とした。伐採量が非常に多くなったので仲間たちに印について説明しなければならなくなった。それぞれの丸太に斧で「皮剥ぎ」が施された。というのはその当時でさえ誰でも指で木片を摘み取れるわけではなかったからだ。

はるかノース・ダコタで伐採していた冬、回転研磨盤はポールによって発明された。それ以前、ポールの木こりたちは丘から転がした石を追いかけて斧を研がなければならなかった。彼らがダコタ、木こりの呼び方では「ビッグ・ディック」に行った時、丘と石を見つけるのが難しかったのでポールが回転する石を準備した。

7人の木こりたちはそれを非常にありがたがった。そのおかげで斧を1週間以内に研げたからだ。しかし、リトル・チョア・ボーイは回転研磨盤を気に入らなかったようだ。なぜなら彼の仕事はそれを回すことだったからである。最初の石はとても大きく、いったん最高速で回せば給料日までずっと回っていた。

リトル・チョア・ボーイは過酷な生活を送っていた。彼は子供にすぎなかったが、森の中で最初の冬を過ごすことになったすべての若者たちのように、年長者からはしゃぎ回らないように釘を刺された。彼の決められた仕事は、キャンプのために薪を割ったり、男たちのために水を運んだり昼食を準備したりするなど重労働であった。いじわるな者たちは、「左利き用の木回し[ 丸太を動かすのに用いる先がとがった鉤棹。]」や「クロスホール[ 鎖状の運搬器具。]の束」などあらゆる作業道具を求める当てのない探索に彼を送り出した。

彼は800ポンド[360kg]しか体重がなかったので多くの悪気のない荒くれ者たちの冗談を受け入れなくてはならなかった。彼はいくつかの腹帯をベルトにしていた。体が小さくても頑張っている彼を男たちはひそかに尊敬していた。男たちが言うには、もし力を身につければすばらしい奴になるに違いないので、いろいろと雑用を与えて教育する必要があるということだ。

回転研磨盤を回したり、火を熾すだけで4コード[14㎥]の薪が必要なキャンプにあるストーブの火を燃やし続けるといった1日の長い仕事を終えた後、夜になっても膝にビッグ・オールの小さな600ポンド[270kg]の鉄床を置いて、蹄鉄に犬釘を付けている彼の姿が見られた。

木材運搬用の橇を道で反転させる問題を解決するまで非常に長い時間がかかった。木材集積場から橇が戻ってきて荷物を[新たに]積んだ時、男たちはポールが4頭の馬と積荷を摘み上げて反転させるまで待たなければならなかった。ジャドソン・M・ゴスは、折り返し場をポールが思いついた冬に働いていたと言っている。

すべてのボールの発明は、1日に10時間3交代制を採用すると決定してオーロラを導入した例を除いてうまくいった。試行錯誤を重ねた後、あまりに光が頼りないので計画は破棄された。

レッド川のほとりに300人の料理人とリトル・チョア・ボーイとともにキャンプを構えていたことから彼らは「レッド川の7人の木こり」と呼ばれていた。1つのキャンプから州全体を伐採して回り、頑健な7人は未明から夕刻まであちこちで作業した。

彼らの斧は非常に大きかったので、1丁研ぐだけでも1週間もかかった。1人当たり3丁の斧を持ち、2人の助手が伐採で過熱した斧を川まで運んだ。当時も彼らは山火事に注意しなければならなかった。斧には長いロープが取り付けられていた。木こりたちが斧を振り回しながら森の中を進んだので、それはポールの周りを飛び回る蚊の羽音のように聞こえ、1歩ごとに半マイル[0.8km]四方の木が伐採された。

7人の男たちの身長、体重、胸囲についてはわかっていない。権威によって異なる。歴史家たちは、爪楊枝として使うためにテーブルに4フィート[1.2m]の木材が積まれていたという点について同意している。夕食の後、飯場の長椅子に座って、大西洋に向かう途中の入植民たちが他にも北西部人がいると気づけるほど、「シャンティ・ボーイ[ 木こりたちの歌]」や「バング・ユア・アイ[ 木こりたちの歌]」を歌った。

ある者が言うには、7人の木こりたちはシャルール湾[ カナダ南東部セント・ローレンス湾の入江。]の男たちだという。またある者が言うには、彼らはすべていとこどうしであり、マチアス道[ メイン州マチアスから南に向かう道]を下ってきたという。彼らはどこから来て、ボールのキャンプを去ってからどこへ流れて行くのか誰も知らないが、彼らは頑健で最高の者たちだったとキャンプの中で記憶されている。

運搬路を下った後、7人の木こりたちは戻ってこなかった。ポール・バニヤンは、これまでどおりの産出量を維持するためにどのような伐採方法を採用すればよいのかわからず途方に暮れてしまった。試行錯誤の後、ポールは両挽きのこぎりを発明した。

最初ののこぎりは、ビッグ・ジョーの角笛を作った時に出た破片から作られ、半マイル[0.8km]四方に届くほど長かった。というのはポールはあまり小さな単位を考えられなかったからだ。のこぎりの上にすべての木が倒れてくるという問題もあったとはいえ、平坦な土地であればうまく使えそうだった。しかし、起伏の激しい土地では丘の上にある木しか切れなかった。谷間にある木は上部だけ切られてしまい、のこぎり[の刃]は深い穴の中にある木に完全に当たらなかった。

こののこぎりを使ってポールとともに木を挽くには強健な男が必要であった。ポールは、一緒にのこぎりを挽く者に「おまえさんがのこぎりの上に乗っても気にしないけど、足を巻き込まれないようにしてくれよ」とよく言った。仕事を与えられたビッグ・オールのいとこたちはとてもうまくやったので、それ以後、五大湖周辺ではのこぎりを挽く者はスカンディナヴィア人ばかりになった。

それからポールはビッグ・オールに「ダウン・カッター」を作らせた。それは草刈り機のような道具である。48マイル[77km]四方で使われ、その刈り幅は500フィート[150m]に達した。

深い雪の冬、あらゆるものが埋まってしまった。ポールは最も大きなストローブマツのてっぺんを掘って探さなければならなかった。 ポールは木の周りの雪を折り返して、のこぎりの挽き手たちを木の根元に降ろした。ポールは、かんじきを履いたベイブに長い掛け縄を牽かせて切り倒された木を地表まで運んだ。ストーブの煙突を月の表面まで出すことが難しかったので、ポールとビッグ・オールは6インチ[15cm]の長さの錐を使って丸太に穴を空けてストーブの煙突にした。

二つの冬の年、夏の間がずっと冬であり、秋になるとさらに寒くなった。ある日、ビッグ・ジョーは沸騰したお湯が入ったコーヒーポットをストーブにかけていたが、あまりに早く凍結してしまったので氷が熱かった。それはまさにポールが五大湖を作った後のことであって、その冬は底まで完全に凍った。ポールが氷を割って岸に運んで太陽で溶かさなければ、誰も氷をのこぎりで切り出せなかった。ポールはすべての氷を切り出してしまったので[五大湖に補充するための]新しい魚をすべて持ってこなければならなくなった。

翌春は中国から雨雲がやって来た年だった。とても激しく雨が降ったので草がすべて根こそぎ洗い流されてしまった。そのせいでポールは牛を食べさせるのに多くの時間を費やした。ベイブはベニーのようにパンケーキを食べなければならなくなった。ポールが非常用の食料として使うために麦わら帽子を被るようになったのはその時からである。

ポールの一行がやって来た時、入植者の人々は筏流しがすべて巨大な麦わら帽子を被っているのを見て驚いた。その理由はすぐに明らかになった。秣がなくなってしまうと、すべての男が帽子を投げるように丁寧に求められた。たくさんの麦わら帽子がベイブの昼食に使われた。

[中略:1頁にわたってポール・バニヤンと無関係なレッド・リバー・ランバー社に関する話が続く]

我々の知る限り、ルーシーはポール・バニヤンの牛ではなく、ベイブやベニーとは何の関係もなかった。ルーシーはベイブやベニーの母親であるという証言もあるが事実無根である。2頭の雄牛は、ルーシーが登場するはるか前からポールバニヤンの持ち物だった。

この目立つ家畜の血統に関して信頼できる資料は見つかっていない。ルーシーの乳脂肪の生産に関する公的な記録はないし、ポールがどこでどのようにしてルーシーを手に入れたかも知られていない。

ポールは、ルーシーは一部がジャージー牛であり一部がオオカミであるといつも言っていた。おそらくそうだろう。ルーシーの行動や生活様式は、はオオカミを先祖に持つという主張を正当化するように思われる。というのはルーシーは飽くことを知らない食欲を持ち、放浪を好む性質を持っていたからだ。ルーシーは目につく物をすべて食べてしまい、ベイブやベニーと同じキャンプで餌を与えられることがなかった。実際、男たちはルーシーに餌を与えるのを諦めてしまって、勝手に餌を漁らせていた。 最も大きなストローブマツが埋まってしまうほどの深い雪の冬、ブリムストーン・ビルは、ベイブのお古のかかんじきと緑の眼鏡をルーシーに装着させて雪の上に放した。最初、ルーシーは新しい履物に慣れない様子だったが、いったんこつを飲み込んでしまうと、転ばずに走れるようになった。ポールが埋もれた教会から借りた鈴を取り付けるまで、ルーシーは無限に広がる雪原に誘われて北アメリカ全土を駆け回った。

餌が少なかったにもかかわらず、ルーシーはたくさんのミルクを出したので6人の男がクリームをすくい取るのにかかりきりであった。もしルーシーがずっと納屋にいて普通に餌を与えられていれば、きっと搾乳の新記録を作れただろう。常緑樹を餌に与えられるとルーシーのミルクはストローブマツやバルサムの風味を強く帯びるようになったので、男たちはそれを風邪薬や軟膏として使った。男たちはミルクを食卓に出すのを止めて代わりにバターを作った。雪や氷がなくなってしまった時、このバターを使うことで林道を滑らかにできた。そのおかげでポールは木材運搬用の橇を夏の間もずっと走らせることができた。

あらゆる説明によれば、ポール・バニヤンの家庭生活はとても幸せであった。 黒い雪の冬、すなわち[18]62年にラウンド川のキャンプでポールのために働いていたと言っているウィスコンシン州ラインラント在住のE・S・シェパード氏によって、バニヤン夫人の面白い一面が示されている。ポールは料理人のキャンプからプルーンの種をせっせと運び出した。3ヶ月にわたってそうした大変な仕事を終えた後、ポールはバニヤン夫人のためにそれをすべてキャンプに運び戻した。キャンプで料理をしていたバニヤン夫人が有名な柔らかいパンケーキを焼くためにプルーンの種を使いたがったからである。

この頃、バニヤン夫人は、扉の近くにあった古い切り株に空いたキツツキの穴に息を吹き込んで男たちを食事に呼んでいた。この切り株にはフクロウの巣があった。そのフクロウは片方の翼が短く。輪を描くように飛んだ。シェパード氏がポールの絵を描いた時、妻としてバニヤン夫人はポールの外見を整えようと、手斧でポールの髪を分けて横引きのこぎりで髪を梳いた。

他の情報源から我々はポールの末っ子であるジーンについて断片的な知識を得ている。ある夜、生後3週間のジーンは揺り籠から飛び出て斧を握って父親のベッドの支柱を下から切ってしまった。ポールはこの出来事を喜んで聞くつもりがある者にであれば誰にでも自慢して話した。ポールは「いつかきっとこの子はすごい木こりになるぞ」と父親の誇りをにじませて言った。

我々がジーンについて最後に聞いたのは、南部の林業会社で働いていて、単線の鉄道を通過する木材を積んだ貨車を持ち上げているという情報である。

荒地と格闘して木材を商品に変えて市場に届けることは、ピクニックのようなものではない。木こりには頭脳と気骨が必要である。

ポール・バニヤンはあらゆる木こりと同じような挫折を味わった。少し違うのはポールの挫折がより大変なものだったことだ。開拓者でいる限りポールはうまくやっていくためにあらゆる物事を処理しなければならなかった。気まぐれな小頭や無能な親方による間違いによってポールの計画は何度も頓挫させられた。青い雪の冬、ショット・ガンダーソンは、ビッグ・タッドポール川流域を管轄していた。彼は湖にあるすべての木材を陸揚げして、春になって輸送準備が整うと、湖の周りに木材の流出を止める綱を張ったが、3度目になってようやく湖から流れ出している水路がないことに気づいた。湖の周りには高い丘陵があって、木材を流せる水路は10マイル[16km]向こうにあった。明らかに丸太をどうしようもなかった。

それからポールがやって来て仕事にと取り掛かって忙しそうにしていた。ポールはサワードウ・サムに呼ばれた。サムはコーヒー以外であればパン種から何でも作り出せた料理人である。サムはポールにパン種で大きな水槽を満たすように求めた。ベイブを水槽に繋ぐと、ポールは水槽を湖まで運んで投げ込んだ。サムによれば水槽が「浮かび上がった」時、力強いマグマのように水が噴出して丸太を丘を越えて川まで運んだ。このミネソタ北部にある内陸に閉じ込められた湖は「サワードウ湖」と今日呼ばれている。

クリス・クロスホールは無頓着な親方だった。彼はポールのために働いていて、ミシシッピ川で木材を流していた。ニュー・オーリンズの貯木場に丸太が届いた時、間違った丸太を運んでしまったことがわかった。識別印を見た荷主たちは受け取りを拒んだ。ポールは丸太を上流に戻さなければならなくなった。

そのような仕事に取り組めるのはポール・バニヤン以外になかった。上流に丸太を運ぶことは不可能に思えたが、もし不可能に思えるからといってポール・バニヤンが諦めると思うなら、それはポール・バニヤンについてわかっていないことになる。ポールは大量の塩漬けの餌をベイブに食べさせて、さらにミシシッピ川上流にベイブを連れて行って水を飲ませた。ベイブは川を上流の水をすべて飲んでしまって川を干上がらせてしまった。川を下るよりも速く丸太を遡らせることができた。

ビッグ・オールは、ビッグ・オニオン川のほとりにあるポールの本拠地のキャンプで働いてる鍛冶屋だった。オールは気難しい性格であったが、腕の良い職人だった。鉄や鋼を扱う作業であれば、どのような作業であっても彼にとって手に余る作業はなかった。料理人の1人がドーナツを作り、オールが穴を空けていた。彼は、ビッグ・ジョーがパンケーキを焼くためのグリドルと10エーカー[4ha]のマツをなぎ倒す食事に呼ぶための角笛を作った。ベイブやベニーに蹄鉄を履かせられるのはオールだけだった。ベイブの蹄鉄を一組作るたびに、ミネソタの鉄鉱山を新たに開削しなければならなかった。オールが一組の蹄鉄を1マイル運んだ時、一歩ごとに足が膝まで硬い岩にめり込んだ。大変な牽引作業をしている時にベイブは蹄鉄を落としてしまった。蹄鉄は1マイル[1.6km]も吹っ飛び、マツを40エーカー[16ha]もなぎ倒し、貨物運搬路を切り開いていた8人のスウェーデン人を傷つけた。またオールは機械工であり、ダウン・カッターを作った。ダウン・カッターとは、芝刈り機のような機械であり、500フィート[150m]の刈り幅で木を切り倒せた。

初期の頃、ポール・バニヤンが伐採の季節の間に休暇を得た時、他の木こりたちのように旅をして開拓作業を見つけられば何でもやった。ピュージェット・コンストラクション社がピュージェット湾[ ワシントン州北西部にある入江]を作っている頃、ポールはワシントン州に現れた。ビリー・ピュージェットは、土管掃除具を使って泥を除去する作業で記録を作っていた。ポールとビリーはどちらが最も多く泥を除去できるのかをめぐって言い争いになった。ポールは怒って、ビリー・ピュージェットにどれだけ多くの泥を投げ戻せるか見せてやると言った。ビリーが止めに入るまでにポールが積み上げた泥はサン・フアン諸島[ ピュージェット湾北部にある島々]になった。

森の中で「できる男」という評判をある男が得た場合、それは身体的な強さについてのみ言及している。その他の共同体の「できる男」からしばしば挑戦を受けることになる。

ピート・マフローという男がいた。「ジョー・マフローを知っているか」。「ああ、ジョー・マフローは2人いるが、1人はピートという名前だ」。その男である。ケベックからシャルール湾の男たちをすべて打ち負かした後、ピートはポール・バニヤンを探し始めた。彼はポールを求めてあらゆる地域を放浪して6枚の靴底を擦り減らした。ついに彼はポールと遭遇した。

ポールは軛をつけた2頭の雄牛とともに耕作していた。ピート・マフローは垣根で立ち止まって、鋤が岩や切り株の間をまっすぐ切り開く様子を見ていた。畝の端に着くと、ポールは鋤と雄牛を片手で拾い上げて方向転換した。それを一目見たピートはすっかり驚いて「たまげたなあ。牛も何もかも持ち上げてしまうなんて」と言いながら立ち去った。

汽車が発明される前からポール・バニヤンは旅を始めた。彼は独自の交通手段を開発した。鉄道はそれに追いつけなかったほどだ。ポールにとって時間は非常に大切だったので、時速60マイル[100km]でのろのろ進む時間はなかった。

昔、彼は青い大きな雄牛のベイブの背に乗っていた。しかし、それには困ったことがあった。なぜならベイブの後ろ脚を見るために望遠鏡を使わなければならず、入植地がさまざまな場所にできた後、雄牛の蹄が甚大な破壊をもたらすせいで旅の精算をするたびに多くの損害賠償を要求されたからだ。

冬においてかんじきは便利だったが、ある時、ポールが大陸横断の旅に出た時、のおかげでかんじきに頼らなくてすんだ。春のある日の朝、彼はミネソタからウェストウッドに向けて出発した。すぐに雪がなくなってしまったが、彼はそのまま速度を落とさずにまっすぐ住み続けた。砂漠を横断した時、あまりに暑く、厚い毛織物のコートが重くなり、かんじきに足を取られるようになったが、引き返すには遅すぎた。

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