無題

ビリー・ザ・キッドに関する真実

※『タイム誌』(1941年8月4日)に掲載された記事を翻訳して再構成

興味深いことに、西部の荒野の無法者であるビリー・ザ・キッドはニュー・ヨーク・シティで生まれたという(1859年11月23日)。彼の母であるキャスリーン・ボニーが後にアントリムという名前の男性と結婚したために、キッドは裁判所の記録にウィリアム・H・ボニー、もしくはウィリアム・アントリムとして挙げられている。12才の時、彼は母を侮辱した鍛冶屋をナイフで殺害してニュー・メキシコのシルバー・シティで最初に歴史に登場した。ただ動機については伝記作家たちによって異論がある。しかしながら伝記作家たちは、その当時からキッドが酒場の手練でカード賭博の詐欺師だったという点で同意している。

次の4年間には空白がある。16才の時、キッドはニュー・メキシコに再び現れて、毛皮のために殺した3人のアリゾナ・インディアンを含めて12人を殺害したと誇っていた。

18才でキッドはリンカンで頭角を現した。 記述によればキッドは細身であり、身長5フィート8インチ(172.7センチメートル)、手足が小さかったという。彼の髪の色はライト・ブラウンであり、彼の瞳は冷たい鉄灰色、そして、前歯が少し出ていた。快活な性格であり、お金を気にせず、 ファンダンゴ[訳注:カスタネットを持って男女で踊る軽快な三拍子のスペイン南部アンダルシア地方のダンス]がうまく、女性に人気があった。荒野では粗野な服装をしていたが、街では非常にダンディであった。牛泥棒に関する気ままな考えを除けば彼は実直であった。類稀なる機敏な心身を持ったキッドは、馬に乗りながらフェンスの柱の上に止まったノハラツグミを撃ち落とし、20フィート(約6メートル)の高みに投げ上げられた帽子が地面に落ちるまでに6つの穴を空けられたという。

シルバー・シティの家族のアルバムから発見された古い鉄版写真、ビリーの姿をよく表している唯一の写真と考えられる。1936年12月17日の『オレゴニアン紙』と1937年2月15日の『ライフ誌』に掲載されている。キッドは自分がハンサムだと言っていた。

[訳注:以下はこの写真に関して追加で調べたことをまとめてある。1937年2月15日の『ライフ誌』の読者投稿欄にこの写真が次のような手紙とともに掲載されている]

拝啓。『オレゴニアン紙』12月27日号に掲載されたビリー・ザ・キッド(ウィリアム・H・ボニー)の写真を見逃すとはどういうことですか。このすごい無法者の唯一現存する完全な顔写真だと思うので送ります。古い家庭のアルバムからオレゴン州グレンカレンのロジャー・デラシュムットによって発見されたものです。テキサス大学のJ・フランク・ドビー教授とビリーを知るニュー・メキシコ州クレイトンのジャック・ポターはこの鉄版写真が本物だと言っています。ウィリアム・P・グレイ、オレゴン州ポートランド

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