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自分に「素直」か、他人に「素直」か

「素直」の言葉が持つ二面性

 8月も20日を過ぎた頃から、テレビや新聞で、子どもたちに向けてのメッセージが目につくようになった。夏休み明けは、命を絶ったり、学校に行けなくなる子どもが多く、それを防ぎたいという呼びかけなのだそうだ。私の周囲には今、親しくする10代の子どもがいないので、「そうか、今の子どもたちは学校サバイバルが本当に大変なんだな」と思うくらいしかできないのだが、自分の子ども時代を振り返ってみて、一つの言葉が思い浮かんだ。「素直」の言葉だ。

 日本では「素直」なことは歓迎される。だけど、私は子どもの頃、この言葉に悩んだ時期があった。「素直じゃない」と親や周囲の大人から言われることが度々だったからだ。親の言うことを聞かない面倒な子どもということなのだが、そう言われるたびに、納得がいかなかった。

 親にとっては「素直」な行動でも、私は自分自身に対して「素直」なこととは思えなかった。が、自分の気持ちに「素直」な行動をすれば、親や大人が嫌がる。どちらが正しいのか。「素直」は誰のための言葉なのか。言葉が持つ二面性に気づくきっかけになった。大人は気軽に「素直じゃない」と言うけれど、子どもにとっては「かわいくない」と同意義だ。けっこうショックな言葉なのである。

素直な気持ちは支えになる

 いまどきは聞き分けのいい子が多く、親も話し合いを大事にするから、私のように「素直じゃない」の一言で片づけられてしまうことは少ないかもしれない。でももし、悩んでいる子がいるとしたら、私は「自分に素直でいいんじゃない?」と言ってあげたい。

 自分が感じる「素直」な気持ちは、自分を支えてくれる柱になる。「何が好きか」「何がやりたいのか」と迷ったとき、頑張ってみたけれど力尽きかけて、「もう駄目かも」と思ったときに、先へ進む道を見つける力にきっとなってくれる。

 10代、とくにローティーンの頃は、素直な気持ちを行動に結びつけるのは、難しいかもしれない。立場が弱いだけに我慢することも多いだろう。10代のつらいところだ。

 でも、「自分に素直になる」感覚は手放さず、大事にして欲しいと思う。そして、素直な気持ちになれる場所や音楽、本、映画など、勉強以外のものを見つけて欲しい。とくに中学時代に素直に「好き」と思えたものは、大人になっても、ずっと「好き」の根を作ってくれる大切な存在になる。

素直な気持ちをたまには眺める

 大人は「豊かな時代なんだから、好きなことをやればいい」と言う。でも、「好き」を育てるには、水も肥料もいる。好きなことがはっきり分かっていて、「これだ!」と思いながらゴリゴリ登っている最初のうちは楽しいが、そのうち、ちょっとした平らな場所に着く。自分が成長した証なのだけど、たいていの場合、そうは思えない。そして、自分が何が好きだったか見失いやすい。停滞期だ。そんなとき、自分の中にある「素直」な気持ちを落ち着いて探してみると、次に進む方向を教えてくれる。

「自分に素直な気持ち」はウソをつかない。前向きにさせてくれるだけでなく、落ち込んだり、イヤなことにあったときも、どうしたらいいか教えてくれる。たとえば、何かイヤなことに出合って、逃げたいと思う。素直になって逃げたとする。そのときは、それが正解の行動。だけど、逃げ続けて安全なところにたどり着き、そのままずーっとぼんやりしたり、ズブズブと沈殿していくと、必ずどこかで、「あれ? 自分の気持ちに素直じゃないな」という時が来る。逃げる理由を何かしら見つけて、言い訳している自分に気づくのだ。そうしたら、また自分に「素直」に聞いてみるしかない。何がしたいのか、どうすれば素直な気持ちになれるのか。

 たぶん、生きていくということは、自分が感じる「素直」な気持ちをどう行動に結びつけていくか、どうしたら周囲に伝わるのか、その模索を繰り返すことなのだろう。そして、年齢を重ねながら、自分の「素直」な気持ちと周囲が思う「素直」さを共存させる手法を学び、蓄積していくものなのだと思う。ああ、なんて人生って面倒なんだ。

 大人も、ときどき、自分の「素直」な気持ちを取り出して、眺めてみるのは悪くないと思う。思い切り深呼吸したような、体の中にすっと1本、筋が通ったような感覚を覚えるから。

仕事に関するもの、仕事に関係ないものあれこれ思いついたことを書いています。フリーランスとして働く厳しさが増すなかでの悩みも。毎日の積み重ねと言うけれど、積み重ねより継続することの大切さとすぐに忘れる自分のポンコツっぷりを痛感する日々です。