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【主日礼拝】2024.4.28「その方による証し」

  これは2024.4.28の主日礼拝で、H.Y牧師がお話されたものを書き留めて、話の流れに沿ってまとめたものです。
  本文では、『聖書協会 共同訳』を引用しています。


【 聖書箇所 】
(旧約) エゼキエル書 36章24-28節
(新約) ヨハネによる福音書 15章18-27節


【 説教まとめ 】

  イエスさまは、最後の晩餐で迫害の予告をされました。その言葉のとおりに、弟子たちは伝道者となり、教会を建てていく中で、紀元30年頃、ローマ帝国からの迫害を受けるようになります。

  その後、紀元66年にはユダヤ戦争が起こり、紀元70年にはローマ帝国によってエルサレム神殿が破壊され、祭司やサドカイ派が姿を消します。

  その中でファリサイ派は、律法によってユダヤ人の再建を図ります。シナゴーグを中心に、律法順守の生活によって民族意識を守ろうとしたのです。

  ローマ帝国では、皇帝崇拝が強いられていましたが、ユダヤ人の礼拝は公認されていました。その当時、キリスト教はユダヤ教の一派だと思われていたのですが、日曜を安息日とするキリスト教をユダヤ人たちは異端と判断し、シナゴーグからも、生活共同体としても追放されてしまいます。

  これによってキリストの弟子たちは、ローマ帝国とユダヤ人の両方から迫害を受けるようになってしまいます。

  このような背景のもとに『ヨハネによる福音書』は書かれました。

  イエスさまの迫害の予告は、12弟子だけではなく、福音書の読者に対しても書かれたものなのです。

  証しという言葉は、証言というほか、殉教者という意味もあります。復活のイエスを証言することで、殉教することとなる者が多かったからです。

  私が父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方が私について証しをなさるであろう。

ヨハネによる福音書 15章26節

  殉教を恐れず、イエスを宣べ伝えることができたのは、この言葉が弟子たちを力づけたからです。

  この言葉を告げた後、イエスさまは逮捕され、十字架にかけられ、復活し、40日の間、弟子たちの前に現れて、天に昇っていかれました。そして、その10日後に聖霊を受けるのです。

  ペトロは、イエスさまが逮捕されたときに、「イエスのことを知らない」と3度を口にしましたが、この聖霊によって、もう「知らない」とは言わなくなったのです。

  それは人の力ではなく、神の霊による証しだからです。

  今年度は5月9日がイエスさまの昇天日であり、その10日後の5月19日がペンテコステ礼拝になります。私たちも、弟子たちが待ち望んだように、聖霊を受けることができるように楽しみに待ちましょう。

  さて、本日の聖書箇所では、「憎む」という言葉が何度も繰り返されます。その前では、「私はぶどうの木」と「愛する」という言葉が繰り返されていたものと対照的です。

  「主の愛につながる弟子たちだからこそ、世に憎まれるのだ」とイエスさまは告げられるのです。

  世とは、ユダヤ教の権力者のことを指しています。ユダヤ人は、律法を守り、神を待ち望んでいたのに、ナザレのイエスという人間を神だと証しするキリストの弟子たちを異端として憎んでいるのです。

  しかし、イエスさまが言われる世とは、それだけではなく、すべての人に潜んでいるものです。

  光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。

ヨハネによる福音書 1章5節

  まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである。  言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。

ヨハネによる福音書 1章9-10節

  世とは、世の中にある闇のことです。その闇とは、アダムの原罪です。アダムは、ヘビのそそのかしを受けて、神のようになることができる知恵の実を食べ、神に背いてしまいました。

  神に背くことは、罪です。その罪を私たちは引き継いできました。偶像を拝むとは、自分の欲望を正当化することであり、すべては自分のためのものと思い違いをしてしまうことです。

  これでは人を愛することはできません。人を自分の奴隷としてしまうからです。けれども、それは自分より力のある者の奴隷となってしまうということです。

  神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。  神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

ヨハネによる福音書 3章16-17節

  イエスさまは、罪人の身代わりとなられました。しかし、そのことによって復活のイエスは、真理の道となられ、神のもとへと導く入り口となられたのです。

  悪魔にとっては最善と思われた十字架の死が、救いの道となったのです。イエスさまは、神の右の座につかれ、聖霊によって導いてくださいます。この御業と愛によって、死が滅ぼされました。

  『ヨハネの黙示録』も、ローマ帝国の迫害のさ中に書かれました。その中で悪魔が戦いを挑むシーンが描かれますが、それはイエスが勝利を治めた後の悪あがきに過ぎないのです。

  「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に私を憎んだことを覚えておくがよい。  もしあなたがたが世から出た者であるなら、世はあなたがたを自分のものとして愛するだろう。だが、あなたがたは世から出た者ではない。私があなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。

ヨハネによる福音書 15章18-19節

  迫害は、イエスを愛するからこそ起こるものです。つまり、イエスの弟子のしるしが迫害であるということです。

  迫害は、世界中で、どの時代でも起こったことです。しかし、恐れることはありません。聖霊が私たちを証し人にしてくださるからです。

  神が世を愛されたように、私たちも世を愛し、悪魔の悪あがきを滅ぼしていきましょう。

  お祈りをしましょう。


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