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【CS礼拝】2024.2.25「私が、それである」

  2024.2.25のお話は、ね羊さんが担当しました。説教全文は、別にあげておりますので、礼拝参加者に配布しているプログラムの『説教要約』と『お祈りのことば』をあげます。
  本文では、『聖書協会 共同訳』を引用しています。

【 聖書箇所 】

  彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたのか、ご存じないとは、実に不思議です。あの方は、私の目を開けてくださったのに。  神は罪人の言うことはお聞きにならないと、私たちは承知しています。しかし、神を敬い、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。  生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。  あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならないはずです。」  彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
  イエスは彼が外に追い出されたとお聞きになった。彼と出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。  彼は答えて言った。「主よ、それはどなたですか。その方を信じたいのですが。」  イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」  彼が、「主よ、信じます」と言って、ひれ伏すと、  イエスは言われた。「私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

ヨハネによる福音書 9章30ー39節


【 説教要約 】 ※ 最後に聖書引用版もあり

  「信じたい」と願うことは、「信じる」ことと同じです。そのありきたりの言葉が、あなたの心をとらえたとき、目が開かれたことを知ります。

  すべての出来事の奥には、神が働いておられます。生まれつき見えなかった目をいやされた人は、見えなかった時に、見ていたものを告白しました。このように神が隠されている事を暴き、礼拝する者を神は求めておられます。

  神の言葉を聞き分けるあなたのもとに、イエスさまは姿を現され、その苦い経験・体験を、甘く豊かなキリストへの成長へと導かれます。

  アーメン。


【 説教全文 】


【 お祈り 】
  天の愛するお父さん、今日も私たちに言葉を超えるあなたの思いを明かしてくださって、ありがとうございます。

  あなたはまどろむこともなく、いつも共にいて働かれていることを、私たちは知っています。あなたのパンによって生かされ、心があなたをとらえることができますことを、何よりも喜び、感謝いたします。

  この祈りを、私たちの主であり、キリストであるイエスさまのお名前によって、お献げします。

  アーメン。



【 説教要約 】 ※ 最後に聖書引用版

  そこで、あなたがたに言っておきます。神の霊によって語る人は、誰も「イエスは呪われよ」とは言わず、また、聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」と言うことはできません。

コリントの信徒への手紙 Ⅰ 12章13節

  「信じたい」と願うことは、「信じる」ことと同じです(Ⅰコリ12:3)。

  聞き取ったすべての言葉の結論。神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。

コヘレトの言葉 12章13節

  きょうだいたち、次のことはぜひ知っておいてほしい。私たちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、  皆、雲の中、海の中で、モーセにあずかる洗礼を受け、  皆、同じ霊の食物を食べ、  皆、同じ霊の飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに付いて来た霊の岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。

コリントの信徒への手紙 Ⅰ 10章1-4節

  そのありきたりの言葉が、あなたの心をとらえたとき、目が開かれたことを知ります(コヘ12:13、Ⅰコリ10:1-4)。

  知恵は呼びかけていないか。英知は声を上げていないか。  知恵は道沿いの高き所の頂に / また街道の四つ辻に立ち  町の玄関である門のそばで / 入り口の扉で、喜び歌う。  「人よ、私はあなたがたに呼びかける。人の子らに声を上げる。  思慮なき者よ、熟慮とは何かを見極めよ。愚かな者よ、心を見極めよ。  聞け、私は唇を開いて語ろう / 高貴なことを、公平なことを。  私の口はまことを唱える。私の唇がいとうのは不正。  私の口の言葉はすべてが義であり / そこには曲がりもゆがみもない。  その言葉のすべては、分別ある人には正しく / 知識を得た人にとってはまっすぐ。  銀ではなく、私の諭しを受け取れ / 知識は金よりも望ましい。  知恵は真珠にまさり / どのような財宝も、これに並びえない。

箴言 8章1-11節

  イエスは、このように多くのたとえで、人々の聞く力に応じて御言葉を語られた。  たとえを用いずに語ることはなかったが、ご自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

マルコによる福音書 4章33-34節

  すべての出来事の奥には、神が働いておられます(箴言8:1-11、マル4:33-34)。

  事を隠すことは神の誉れ / 事を極めることは王たる者の誉れ。

箴言 25章2節

  聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。

テモテへの手紙 Ⅱ 3章16節

  生まれつき見えなかった目をいやされた人は、見えなかった時に、見ていたものを告白しました。このように神が隠されている事を暴き(箴言25:2、Ⅱテモ3:16)、

  しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。

ヨハネによる福音書 4章23節

  律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。ですから、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできないのです。

ヘブライ人への手紙 10章1節

礼拝する者を神は求めておられます(ヨハ4:23、ヘブ10:1)。

  心の清い人々は、幸いである / その人たちは神を見る。

マタイによる福音書 5章8節

  光は世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇を愛した。それが、もう裁きになっている。  あくを行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない。  しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神にあってなされたことが、明らかにされるためである。

ヨハネによる福音書 3章19ー21節

  私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。

ヨハネによる福音書 10章27節

  しかし、私たちは、成熟した人たちの間では、知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の無力な支配者たちの知恵でもありません。  私たちが語るのは、隠された秘儀としての神の知恵であって、神が私たちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。  この世の支配者たちは誰一人、この知恵を悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。  こう書いてあるとおりです。
 「目が見えもせず、耳が聞きもせず
  人の心に思い浮かぶもしなかったことを
  神はご自分を愛する者たちに準備された。」
 私たちには、神は霊を通してこのことを啓示してくださったのです。霊はあらゆることを、神の深みさえも究めるからです。  人の内にある霊以外に、一体誰が人のことを知るでしょう。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。  私たちは世の霊ではなく、神の霊を受けました。それで私たちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。  この賜物について語るにも、私たちは、人の知恵が教える言葉ではなく、霊が教える言葉を用います。つまり、霊によって霊のことを説明するのです。  自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊に属する事柄は、霊によって初めて判断できるからです。  霊の人は一切を判断しますが、その人自身は誰からも判断されません。
 「誰が主の思いを知り
  主に助言するというのか。」
しかし、私たちは、キリストの思いを抱いています。

コリントの信徒への手紙 Ⅰ 2章6-16節

  神の言葉を聞き分けるあなたのもとに、イエスさまは姿を現され(マタ5:8、ヨハ3:19-21、10:27、Ⅰコリ2:6-16)、

  モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせ、一行はシュルの荒れ野に入って行った。一行は荒れ野を3日間進んだが、飲み水が見つからなかった。  彼らはマラに着いたが、マラでは水が苦くて飲めなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。  民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのですか」と不平を言った。  そこでモーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。彼がそれを水に投げ込むと、水は甘くなった。その所で、主は掟と法を示し、その場で彼を試みて、  言われた。「もしあなたの神、主の声に必ず聞き従い、主の目に適う正しいことを行い、その戒めに耳を傾け、その掟をすべて守るならば、エジプト人に下したあらゆる病をあなたには下さない。まことに私は主、あなたを癒やす者である。」

出エジプト記 15章22-26節

  実際、今日に至るまでモーセの書が朗読されるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。  しかし、人が主に向くならば、覆いは取り去られます。  主は霊です。そして、主の霊のあるところには自由があります。  私たちは皆、顔の覆いを取り除かれて、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられていきます。これは主の霊の働きによるのです。

コリントの信徒への手紙 Ⅱ 3章15-18節

  あなたがたは鍛錬として耐え忍びなさい。神は、あなたがたを子として扱っておられるのです。一体、父から鍛えられない子があるでしょうか。  誰もが受ける鍛錬を受けていないとすれば、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。  さらに、私たちには、鍛えてくれる肉の父がいて、その父を敬っていました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。  肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父は私たちの益のために、ご自分の聖性にあずからせようとして、鍛えてくださるのです。  およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後には、それによって鍛え上げられた人々に、平安な義の実を結ばせるのです。
  だから、萎えた手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。  また、自分の足のために、まっすぐな道を造りなさい。不自由な足が道を踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。

ヘブライ人への手紙 12章7-13節

その苦い経験・体験を、甘く豊かなキリストへの成長へと導かれます(出15:22-26、Ⅱコリ3:15-18、ヘブ12:7-13)。

  アーメン。

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