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【説教07】2022.11.6「私の隣人とは誰ですか」

  これは2022.11.6に、” 聖霊のとりなし ” について、子どもと大人が参加する礼拝で、私がお話したものです。


【 聖 書 箇 所 】

  同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。  人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

ローマの信徒への手紙 8章26-27節


【 説教 】 約12分00秒

  本日の聖書箇所に " とりなし " という言葉があります。とりなしとは、間をとりもってくれるということです。

  聖霊さまは、私たちとの間をどのようにとりもってくださるのでしょうか。今日は、このことについて、御心を深めていきたいと思います。
  「言葉に表せないうめき」とありますね。

  うめきとは何ですか?

  イメージがつきますか?

  例えば、授業で先生が、「この問題わかる人?」と言ったとき、「はい」、「はい」、「はい」と、だいたいみんな手を挙げるような年齢がありますよね。そのくらいの子を思い浮かべてください。

先生「それじゃ、〇〇くん」
生徒「はい、わかりません」

  こういう子っていいですよね。私の小学校の先生が言っていました。先生も怒るどころか、「そっかー(この子を助けてあげたい)」みたいな気持ちになるらしいです。それで、うめきです。

  こういった子が、「はい」と立って、答えようと思ったんです。でも、「はい、えーと…あれ…え…と…えーと…、先生、ここ(喉元)までは答え出てるんですけどー……」と、これがうめきですね。

  そうすると、先生はどうされますか。「それじゃ、別の人…」とはならないですよね。「〇〇くん、86ページだよ」と、助け舟を出されますよね。その子もハッとして確認して、「先生、答えはこれこれです」と、自信をもって答えます。

  一生懸命に取り組んで、何とかしようとがんばっている人を見ると、「その人の力になってあげたい」と思うでしょ。だから主も、あなたに弁護者を、助け手を、聖霊さまを送ってくださるのです。それは、どのようなときに知ることができますか。

  例えば、今、下の階で自己紹介カードを作っています。その中に「聖句」を書いている人もいますよね。あれは自分の好みで選んでいると思いますか?あれが、聖霊のとりなしの典型例ですよ。そのしるしを自分で確認することができます。


  『ルカによる福音書』に取税人の祈りのお話があります。取税人は遠く離れて立って、目を天に向けようともしないで胸を打ちながら、「神さま、罪人のわたしをおゆるしください」と言った(ルカ18:13)。これだけのお話なのです。

  胸を打つとは、どういうことですか。「求めよ、捜せ、叩け」とありますよね。そうすれば与えられる、見いだす、開けてもらえる(マタイ7:7-8)」。主は、天におられるかもしれない。けれどももっと近く、あなたの中に住んでおられる主に問いかけなさいということです。


  何か自分の心に残っている聖句「こんな感じの言葉があったな」というのを、少し思い浮かべてください。そして、その聖句に問いかけてください。人は、「なぜ」、「どうして」と問いかけると、答えを探そうとします。

問 「何でこの聖句が好きなのだろう」
答 「その中のこの言葉が気になるんだ」

  例えばこのように、その中でも特に意識していたことは何なのかに気づいたりします。それにさらに問いかけるのです。

問 「何でそれが気になるのだろう」
答 「優しい癒される感じがるからだ」
答 「悪いことを引き留める言葉になってる」

  こういった自分の中の思いなどが出てきたりします。それにさらに問いかけるのです。

問 「どうしてそう思ったんだろう」
答 「こういった出来事があった」

  こういった感じに、あなたの中のあるエピソードにつながります。そして、それは大した出来事でないことが多いです。さらに、その出来事の気になることに繰り返し繰り返し問いかけていくことで、より明確に、具体的になってきます。

  はじめてやると、少し迷うこともあるかもしれません。けれども慣れてくると、延々といくらでも問いかけられます。これは私も教えてもらったのです。

  さっきの流れは一例で、やり方は、特にありません。ただ、意識することは、深める方向で問いかけていくということです。目標は10段回、「なぜ」、「どうして」と問いかけてください。

  すると、その聖句に対するエピソードを通した”個人的な教え”を受け取ることができます。これは、いつでも、どこでもできるからオススメです。



 ところで聖書には、井戸の話がよくでてきますよね。いろんなところで井戸を掘ったり、石から水がわき出たりします。

  井戸とは、今の私たちにとっては、この聖書のことです。そこから汲み出された一杯の水とは、何ですか?あなたの好きな聖句、気になる聖句となって現れてきた御言葉のことです。

  人にアドバイスを求めたら、「昨日言ってたことと、今日言ってることが違う」ということありませんか。言われた通りにやってきたのに、「全然、俺の言ったことがわかってない」と拒まれたことはありませんか。その人は心変わりしたのです。

  そのようなときに、「本当の正しさとは、何なのだろう」、「変わらないものってあるんじゃないのかな」と、思い知らされることもあるのではないでしょうか。それが喉元まで出かかっている。けれども、あなたには、それがわからない。

  真理の霊も、あなたの苦しみに寄り添い「あなたの助けとなりたい」とうめいているのです(ルカ11:5-13、ヨハ15:26)。それが聖書を読むと、具体的な御言葉として現れてきているのです。

  今日の聖句の中に「わたしたちはどう祈ったらよいかわからない」とあります。この祈りとは、お祈りの言葉だけではありません。

  礼拝の中では、お祈りのほかに聖書を読んだり、みんなで賛美したり、詩編を交読したりします。そして今は、このお話を聞いて、思い巡らせたりしています。”祈り”とは、主と交わること、つながろうとすること、そのすべてのことです。

  ですから、『わたしたちはどう祈ったらよいかわからない』という御言葉は、『わたしたちはどのように主とつながればよいのかわかりません』と、受け取ることもできると思います。

  私たちは、聖書の言葉を通して主とつながります(ヨハ5:19,15:5)。

  そのつながり方は、新しい教えの受け取り方にあります。そのことは隣り人を助けるサマリア人のお話によく表れています(ルカ10:25-37)。

  イエスさまの問いに、律法学者が「律法には、永遠の命を得るには、主を愛せ、自分を愛するように隣り人を愛せとある」と答えます。イエスさまが「その答えは正しい」と言われます。すると律法学者は、「では、私の隣人とは誰ですか」と問い返します。

  それに対してイエスさまは、この話をされるのです。

  「強盗に襲われて傷ついた人が倒れています。そのそばを3人の人が通りかかりました。模範となるべき祭司とレビ人は見て見ぬふりをして通り過ぎました。3人目のイスラエルと敵対するサマリア人は、その人の傷の手当てをして、近くの町に運び、宿の主にお金を渡して『足りなかったら帰りに払います』と言いました」。

  イエスさまは、「誰がその者の隣人となったか」と問い、律法学者は、「その人に憐みをかけたサマリア人です」と答えます。イエスさまは、「いって、あなたも同じようにしなさい」と言います。

  「わたしの隣り人とは誰ですか」の問いに対して、「あなたが隣り人になりなさい」が答えなのです。

  これを古い文字に従う生き方、古い教えの受け取り方、あなたとイエスさまが別々の人として外側から答えを受け取ろうとすると、

学 者「隣人とは誰ですか」
イエス「あなたが隣人になりなさい」
学 者「答えになってない」

このように争いになります。

  だから新しい教えは、あなたの中に住んでおられる主に問いかけて、内側から答えを得なさいということなのです。「私の隣人は誰だろう…(あ、私がいって、それをやるのですね)」という受け取り方になります。

  はじめは戸惑うこともあるかもしれません。けれども、さっきオススメした10段回の問いかけ、あれを続けていると、「この答えは、どこかから渡されているのではないのか」と気づくときがきます。もう気づいている人もいるでしょう。



  『ヨハネによる福音書』にイエスとサマリアの女のお話があります(ヨハ4:7-15)。

  イエスさまが「水を飲ませてください」というと、サマリアの女は「どうして敵の私にそんなこと言うのですか」と言うのです。けれどもイエスさまは、「私が誰かを知っていれば、あなたの方から『水を飲ませてください』と言ったはずですよ」と言います。

  なるほど、「イエスさまは敵対する隔ての壁、肉体の壁を超えて、私の中に住んでおられるのだ」ということに気づくときがきます。イエスさまの言葉が、私たちの言葉になる。

  イエスさまは、「今がそのときである」と言われました(ヨハ4:21-24)。

  神の言葉は、物語を通して語られます。主は、その物語の中に神の国の教えを隠しておられるのです(イザ8:16、マタ13:10-17)。

  そして同じように、あなたの経験・体験の中に、あなたに個人的に与えようと思っておられる教えを隠しておられます(申命4:32、ヘブ5:14)。

  ですから私たちは、聖書の言葉を心に収めます(マタ6:31-33、ヨハ1:1)。そして常に御言葉に尋ね求め、探します。イエスさまのとりなしておられる言葉の中を私たちは歩み、その私たちの中にはイエスさまは住んでおられます(箴言6:23、ヨハ8:12,14:20)。そして、次の御言葉が実現します。

  善い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い人は悪い倉から悪い物を取り出す。

マタイによる福音書 12章35節

  私たちは、自分たちの中に収めた言葉によって、主の前に正しい者とされ(マタ12:33-37)、あふれる言葉、あふれる行いによって信仰の勝利を得ます(出20:12、ヨハ5:19、ロマ10:10、ヤコ2:18、ヘブ11:3)。

  それは、あなたのエピソードをとおして、火で塩味をつけられた証しの言葉となります(マル9:49)。そのパンは5,000人にも4,000にも分け与えても余りあります(マタ14:13-21,15:32-39)。そうすると、どうなりますか。

  私の戒めを受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。私を愛する人は、私の父に愛される。私もその人を愛して、その人に私自身を現す。

ヨハネによる福音書 14章21節

  どのように現されるのですか。イエスさまは言われます、「私を見たものは天の父を見たのである」(ヨハ14:9)。それでは、あなたを見た人は、誰を見たのですか。

 「心の清い人たちはさいわいである / 彼らは神を見るであろう(マタ5:8)」。神の言葉が、あなたの間をとりもってくださり(ヨハ17:6-11)、主は、あなたと共に働かれます(マタ28:18-20)。

  主を知る私たちとの交わりが、神と人々との交わりとなりますように(Ⅰヨハ1:1-4)。お祈りします。


【 お祈り 】
  天の愛するお父さん、私たちがあなたを求めたとき、あなたは「ある」と言われます。あなたの言葉が私を正してくださるように、私は絶えずあなたを目の前に置きます。

  あなたが御心の案内人となり、あなたが私たちを導き上ってください。あなたのいないところに私たちは行きません。あなたのいるところに私たちは行きます。あなたの与える糧が、人々の命となりますように。

  この祈りを主イエス・キリストの御名によってお捧げいたします。アーメン。

(出3:14,33:12-16、詩16:7-8、イザ4:4、マタ15:14、ヨハ6:54-58、ヘブ9:26参考)

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