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白鳥にはなれなかったアウストラロピテクス𓆏

かわいいという大義名分は呪いだよね。
(別に"かわいい"をあらゆる評価を定める言葉に置き換えても良い)

実はアウストラロピテクス、意外にもルーシーなどというまともな名前を与えられている。


“醜いアヒルの子"が果たして大人になったところで白鳥に迎え入れたれたとしてそれは本当に幸せなんだろうか?
もしも、誰かに気に入られることが嬉しいだけの盲目的な物語の奴隷ならば嬉しいのだろう。
今度は別の比較が待ち受けてるだけだ、別の劣等感が蝕むだけだ。健全に育てられて自身を疑う余地がない人間との心情との差に苦しめられるだけだ。きっと大人になったとて罵詈雑言が頭を駆け巡るんだろう。でも、そんな私はアヒルの子はアヒルで、ただのアウストラロピテクスなのだ。
アウストラロピテクスは白鳥にはなれない、無論アヒルだって蛙だってそうなのだ𓆏


アヒルにしたって辛い。
やがて飛び立つための白鳥のための演出だとか道具でしかない。現実に期待されているのが、道具でしかなかったとして私はそうはなりきれなかった。いじめ役として徹することも出来なければ白鳥のためだという卑屈な謙虚さを誇示することすらも出来なかった。
物語のための奴隷にすらなれなかった。
主人公になろうという気概もなく、選ばれやしないのに人より何故か優れている汚点しか残らなかった。

アヒルだろうが白鳥だろうがアウストラロピテクスだろうが、自身がなんであれ私が健全に育てられた白鳥に劣るという自負心と容姿という汚点のせいで認めてもらえない社会性に対する異物感、───異邦人であるような疎外感は消えないんだろう。どの作者とて、自分が社会から感じる侘びしさや寂しさを空想の中に束ねては心の旅を重ねたんだろう。短い生の中に長い航路を悠然と紡いで現実を生き抜くための術とするために。

迎えが来る、という逸話は何も『醜いアヒルの子』だけじゃない“かぐや姫”にしかり”シンデレラ“にしかり、耐えていればいつかなんて皆思ったりするのだ。そんなものはなくて、迎えが来るというのであればいつだって最初から決められた特別な存在でしかないのに自分もそうなれるだなんて夢を見てしまう。
現に白鳥は恐らく成人まもなくの頃だろうし、かぐや姫もシンデレラも若い頃に起承転結の全てを終えている。25を過ぎたらもう手遅れだ、一体ここから何をしろというのだろう何を楽しめば良いんだろう。それなのに年老いてまだ夢を見てしまうのが何者にもなれなかった自分から目を背けたいがために患う現代の精神病で。自己承認を他人に委ねざるを得ない欠落が病を患わせる。
明日という退屈さを凌ぐために、何も変わらない毎日を、そうしていないと耐えられないから。


いっそ、地球ではない何処かへ行けば物語の枷から私を自由にすることが出来るんだろうか。
私は皆が愛するものを愛せないまま日常を過ごすより、或いは嫌いなものを嫌いだと言うことが許されないのならば、籠もってしまえば、月どころかもっと遠くにプロキシマ・ケンタウリや遠い惑星を経由して別の宇宙にまで逃げ出してそこで高度な文明の中に引き籠もれればいいとすら思う。そうして誰にも見つからないように朽ちていければいいと思う。何かを夢見ることすら出来なくなった私はただ余生を過ごすみたいに消えてしまえばいいのにと思う。
そしたら誰にも認めてもらえなかった私を私自身がついぞ認めることが出来るのであろうか。


きっと白鳥の仮面を被ったとて私はなれやしないんだろう。仲間に入ったとて鬱屈さから抜け出すことが出来ないんだろう。迎えが来ても逃げ出してしまうのだろう、それは劣等感や寂しさだけでなく、自分が醜い時期に違う美しい人生を送っていた人を赦すことが出来ない卑屈な我儘さからそうなってしまうのだろう。
だから私は地球ではない何処かへ安息を見出したくなる、仲間の元へ還る為ではなく自分自身が安らかに死に行く場所を探すための遠い旅路に焦がれている。


白鳥にはなれずともアウストラロピテクスは頑張ったんだと思う、愛されなくても美しくなくても生きていた。

綺麗じゃないなら生きてるのは辛いから、綺麗じゃないのに生きてる人は凄い𓃱




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