壇ノ浦の合戦ゆかりの社


源平最後の合戦「壇ノ浦の合戦」で平家は和布刈神社で、源氏は甲宗八幡でそれぞれ戦勝を祈りました。
 甲宗八幡宮では、1185年(文治元年)平家を滅ぼし源範頼(蒲殿)、義経兄弟が参拝、重藤弓・鏑矢を献上し平家追討の祈願成就で社殿を修造しました。
 第56代清和天皇の貞観元年(859年)、大和国(奈良県)大安寺の僧侶であった行教(ぎょうきょう)が、九州で最も霊験あらたかな豊前国の宇佐八幡宮(宇佐神宮)に参拝しました。宇佐八幡宮は大陸文化の影響を受け、新しい文化圏をもつ神で、地方神としては伊勢神宮についで朝廷の信仰を最も受けていました。
 行教は神前に額ずき「桓武天皇は都を平安京に遷させ給うてより(平安遷都)、五十年以上も経過したが、未だに王城鎮護の神はなし。願わくば神慮が我に降って、守護神を教え賜え」と祈念したところ、「吾れ都近く(山崎離宮のあった男山)移座して国家を鎮護せん」とのご神勅を受けました。
そこで翌年の貞観2年(860年)、清和天皇は太宰大弐(太宰府の太宰師の次の位置する職)清原真人岑成を勅使として派遣。勅使の旨を受けた行教は、畏んで宇佐八幡宮のご分霊を山城国(京都府)にお遷しする(石清水八幡宮の創建)途中、門司関の霊峰筆立山(大宮山)の山麓に滞在しました。
するとその時、筆立山上空に瑞雲(めでたいことの前兆として現れる雲)がたなびき、不思議なことに八流(やながれ)の幡(はた)を天降(あもり)して、光り日月のごとく行教の袈裟を照らしました。

行教は「大神の出現疑いなし」と上申し、この地に宇佐八幡宮の御分霊を祀り、神功皇后御着用の御甲を御神霊(御神体)として外朝西門鎮守門司八幡宮(後に甲宗八幡宮)を創建しました(御甲をご神体として祀ることから甲宗と称すようになる)。
祭主は宇佐神宮初代宮司大神比義を始祖とする大神義勝であります。
祖先には遣唐使あるいは遣唐副使がおり、義勝以後、歴代の宮司は五攝家の近衛家より、九州及び四国一部の海上総関門で朝鮮・中国大陸との交流の要衝でもある門司関の関司(別当)に任命されました。(甲宗八幡宮御由緒より)
ご神体の甲は50年に一度、足利氏や大内氏の古文書など公開されますが、錆がひどくなっています。
門司氏、細川氏、小笠原氏、出光氏(出光佐三氏はここで結婚式もされました)などからも崇拝されてきました。
J3のギラヴァンツ北九州も毎年必勝祈願されています。
また、社殿裏の山に葬られていた平知盛墓が大雨で社殿内に流れ落ち現在社殿横にひっそりと祀られています。

めかり第二展望台にある陶板壁画


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