見出し画像

詩 『夕焼け』

中学二年の時だったと思う

国語の授業で、詩の感想文を書いたことがあった
三つの詩から選んで感想を書く
吉野弘「夕焼け」、三好達治「大阿蘇」、もう一つは思い出せない

先生(当時二十代の若い女性教師だった)が、そのいくつかを読み上げた
 
「娘の行動はすばらしい」
「他の乗客は薄情だ」
「彼女を見習いたい」
そんな感想が続いた

少し考えた後に、彼女は生徒たちにこう問いかけた
「作者は実際にこんな光景を目にしたのだと、そう思う人は?」

ほとんどの生徒の手があがった
僕も手をあげた
彼女は続けて、なぜそう思うのかを問うた

ひとりの女生徒が答えた
「この詩が作者の想像だけで書かれたなんてとても信じられません
もしそうなら、この作品に価値はないと思います」

似たような意見がいくつか続いた
僕も同じように思っていた
 
あの「やさしい心の持主」が実際にはどこにもおらず
単なる作者の想像の産物だとしたら…

先生は意見を聴き終わると、少し首をかしげて「そうかな?」と言った
 
「本当にあったことかどうかと
この詩の価値や、みんながこの詩に感動したこととは
分けて考えていいんじゃないかしら
わたしはどちらであってもいいと思うな」

すると、先ほどの女生徒が、また手をあげて言った

「わたしは違うと思います
だって、もしそうなら嘘を書いていることになるから
本当のことを書くのが詩だと思います!」
 
彼女はなぜだかすこし怒ったようにそう言った

僕の記憶はそのあたりで途切れている

けれど、僕自身が詩を書くようになったためか
この場面をふとした時に幾度となく思い出した
 
「本当のことを書くのが詩だ」
という彼女の声とともに

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

彼女とは同窓会でその後一度だけ会った

卒業後十数年ぶりに開かれた同窓会のざわめきのなかで
彼女は誰からも話しかけられることもなく
誰かに話しかけることもできず
身をかたくして所在なげに座っていた

「やさしい心の持主は 
 いつでもどこでも 
 われにもあらず受難者となる」

ふいに「夕焼け」の一節が浮かんだ
 
当時の彼女がそこまで嫌われていたわけではない
ただ、思春期の少女らしい(少しばかり過剰な)潔癖さが
まわりから人を(どうやらその時も)遠ざけていた
 
僕も一度だけ遠くから彼女と目が合ったのだけれど
軽く会釈しただけで話しかけることはしなかった
 
その後、同窓会は何度か開かれたが、彼女が来ることはなかった
 
僕の会釈に返した彼女のぎこちない微笑みを
いまも覚えている

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?