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記憶のなかの植物、の日


2023.6.29

グラジオラスは、
記憶のなかに、咲いていた花だ。

鮮やかないろのそれが
記憶のなかでひらくとき、

その傍らには、
父や母がいて、

わたしは無力だからこそ、
彼らに愛され、

しかし、時に、

《幼児》という

手のかかる
面倒なイキモノとして、

密かに、疎まれていた。


あのころ、夏は、
永遠、のように、長かった。

くる日もくる日も
目覚める、と

長いいちにちが

白い影法師みたいに
やってきていて

わたしの手を引き、
短い旅へ、連れ出した。


こどものころ、わたしは
何度も、蝉が羽化する姿を見た。

青い羽を震わせて
どこか濡れたような胴体を
ゆっくりと、殻から離していく姿を

わたしは、一体となったように
息を詰めて、眺めていた。


蟻が、死んだカナブンを
大勢で、巣へと引いていく姿も

しゃがみこみ、よく、見た。

蟻の列は、
どこまでも続いていた。

昼のしづけさのなか、
彼らだけが、充実していた。


あの夏、
わたしの
長いいちにちは、

数ヶ月前に生まれた
赤ん坊の世話をする
母を煩わせないこと

が、いちばんの大切ごとで、

あの夏に、庭があったこと、は
母とわたし双方にとって、

しあわせなこと、だった。


記憶のなかで咲いている花は
あの夏庭にいた、植物たちだ。

赤いグラジオラス
ピンクのコスモス
オレンジのダリア


皆、夏の盛りの太陽に
呼応するように、
背丈を伸ばしていた。

とりわけ、グラジオラスは
見上げるような高さで、

剣のような葉を従わせ、
青空に咲いていた。


両親は、数年の間、
その、ちいさな庭付きの家
---社宅に住んだ。

それは、わたしたち家族にとって
唯一の、庭がある時間となり、

それ以降は、真四角の集合住宅の
4階や5階に住んだ。


当然、わたしは、
庭から遠ざかり、

あの夏のように
彼ら(植物)と、親密になることはなかった。



夜、庭に来たら、月明かりの下、
グラジオラスが咲いていた。

50年ぶりの、再会だ。

手を伸ばして、
そうっと、花茎に触れる。


幼い頃みたいに。

『相変わらず、若々しいのね』

『そうかい?』

『そうよ、なにひとつ変わらず、
そして、とびきり艶かしいわ』

『俺は、毎年、死ぬからね。
晩夏には、かならず。

きみは、あの夏から
一度も死んじゃいないんだろう?』

『ええ、生き続けているわ』

『それにしては、随分と
様子が、変わったな。
まるで、別のニンゲンだ』

彼は、昔とおなじように
わたしを、ちらりと見下ろした。

背が高さから、
わたしの白髪頭を見つめている。

首のうしろにこんもりとついた肉や
筋ばった首の、乾いた皮膚を見ている。


わたしも、彼を見つめた。

毎年、死んでは咲く美しさ、を、見つめた。


ふいに、彼が笑った。

『しかし、おちびさんであることは
変わらないな。きみは、俺の背を、
この夏も、越していない』

わたしも、笑った。

あの夏庭にいたころよりは
背は倍くらい伸びた、が、

それでも、グラジオラスの剣のような
花の、いちばんてっぺんを
越せはしなかった。


『ねえ、知ってる?
ヒトの世界では、生き続けることを、
老いるというのよ』

グラジオラスは、頷いた。

『ヒトは、ゆっくり死ぬんだ』

わたしも、頷いた。



翌朝、グラジオラスは
とても可憐に咲いていた。

日の下では、
彼は、彼女、になっており、

柔らかな微笑みで、
わたしを再び、見つめた。


蜂たちが、彼女の花の、
奥へと、頭をつっこんで、
忙しく、羽音を響かせていた。


『あなたは昔より
自由な顔をしている。
すこしく、寂しそうだけれど』

と、彼女は言った。


『長く生き続けているから、
そういう変化があるのね。

わたしは毎年、綺麗だけど
それは、すこしく退屈よ。

時に、グロテスクな黒い花でも
咲かせてみたいわ。

蜂たちがぎょっとして
近づいて来ないような、
そんな花を、ね』

わたしは、同意した。


『それは、もしかしたら
自由、かも、ね』



わたしは、夏の庭にいる。


記憶のなかに咲いていた植物たちと
一緒に、いる。


とても、楽しく切ない。



追記

父が、庭に植えて、
毎年、葉だけは出るが
5年くらい咲かなかった
グラジオラスが、今年、突然、咲いた。

父が好きな、
鮮やかないろ、です。


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