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貧しい者たちの庭、の日。


『球根っていうもんは、
自然にふえていくんよ。

だから、
貧しい人たちの庭にも
花を咲かせることが
できるんよ』

バーネットの
秘密の花園のなかの

マーサのこの言葉に
励まされる立冬の朝。

岩波書店
岩波少年文庫
バーネット作
山内玲子 訳
《秘密の花園 上》より


あたらしい苗を
あたらしい季節ごとに
どっさり、と、

肥料や土に良いものを
どっさりと

消毒や殺菌のオクスリも
いろいろ揃えて

鉢なども、アンティークで
おしゃれなものを
いくつも、

と、ガーデニングも

余裕があるひとの
趣味となりやすい

と、始めてから、知った。


youtubeなどの
庭関連の動画も

苗をお迎えしました、と

新しい、綺麗な苗が
きらきらと登場し、

ガーデンショップの発信も然り。

でも、ふと、
ソンナニカエナイ、と気づく。


それでも、昨年は
白髪を染めるのをやめて
服も買わず、

代わりに
苗や種を購入した。


なにしろ、わたしが
遠距離庭仕事に通う
《荒れ果てた庭》には、

木はあれど、

植物さんがほとんど
無かったから、

植えたり、蒔いたり

するところから
始めるしか、無かったからだ。

遠距離庭仕事を始めたころ。
雑草を抜いて。
剪定していない紫陽花と
秋明菊。
茂る木たちに
庭の半分が昏く沈んでいた。
遠距離庭しごとを始めて、半年くらいのとき。

雑草と庭中に蔓延っていた竜の髭をようやく
すこし、抜いた頃。

花壇に、父が
ルピナスの苗を植えてくれた。
わたしは、喜んだ。



父は、2年前の秋、脳梗塞を患い、
生命は取りとめたが、

庭からは、去らねばならなくなり

わたしは、2年のあいだ、
独り、庭で奮闘した。



そうして、今年の
あたたかなNovember

庭に、だんだん
植物さんが、住んでくれるようになった。


こぼれ種から、
挿し芽苗から、

次々と花が咲いた。

エキウムブルーベッダーさんも
マリーゴールドさんも
種蒔き苗の、こぼれ種から。
種を採るために
残しておく、ぽんぽん百日草さんたち
こぼれ種から苗を移植した
エキウムブルーベッダーさんも
株分けした低木の苗も隅っこで育っている花壇。


さて、11月といえば
球根を植える月である。

母が、
生きていたころに
父と植えてくれた

数種類の水仙が
庭中に、殖えている。

それを晩春から夏にかけて
掘り上げて、保管しておいた。




2023.November

庭の奥の寂しい場所へ
新しく、どんどん、植えた。

白八重水仙
黄色らっぱ水仙


他には、鈴蘭水仙も植えた。

看板を立てた。

父が納屋に残した木切れで。




この冬は、

数で言えば、
100球くらい植えたが、

わたしは、それらのなかの
ひとつ、も、買っていない。

《過去からの贈りもの》

植えてくれたひとがいて
それが、自然に殖えて、
たまたまわたしが、受け取った。


そして、この
名の知らぬ菊は、
たぶん、鳥さんか風さんからの
贈りもの。

こんな可愛いピンクのちいさな花が
咲く、なんて、

育っているのを見つけた如月には
思ってもみなかった。

来年も咲くだろう。

それから、種の寝床。


↑春に咲いた花たちの種を採取して
ぱらぱらぱら、とランダムに蒔いた。

芽が出るかなあ、と見守っていたら

ちゃんと、芽を出してくれた。

ルピナス、ジギタリス、カンパニュラ
エキナセア、パンジー


種を採って、蒔くなら
もう、買わなくて良い。

輪ができて、
来年も再来年も、咲く。


お隣の魔女に
それを話したら、

《実は、わたしは、もう
苗を買うことはほとんど無いの。

好きな植物はもう庭にあるから。

それにね、

例えば、庭の薔薇たちを
挿し芽をして、育ったら
以前に、ぜひ分けてほしい
と、おっしゃっていたお友達に贈ると、

お礼はいらない、と言ったのに、

たくさん成ったから、と
夏には、お友達が育てた
ゴーヤがどっさり贈られてきて、

秋には、
たくさん実ったから、と
無農薬のお米が贈られてくるの。

ちいさなFREEな輪を
植物を通して、
わたしたちは、
知らないうちに作っているの》

と、笑ってらした。



わたしはうなずき、

マダムから
昨年の秋に
分けていただいた
ブロックローズの苗や

春に分けていただいた
星型のうすむらさきの
宿根のハナニラが、

ハーブ菫が、

庭に、すでに在ること、に気づき

わたしも輪のなかにいる、と知った。



先日読んだ、瀧口夕美さんの
《安心貧乏生活》は、

節約術、とか
こころは豊かに、みたいな
ノウハウの本じゃなく、

《考え方を自分で変えた人たち》

が、鮮やかに、逞しく
圧倒的な《自分の知と体験》を持って

現れてくる。

貧乏でもいいから安心したい、と私は考える。けれども、その安心というのは漠然としている。どうやったら得られるのだろう。生きていくには、ある程度の現金が必要で、いまの暮らしを自給自足に大転換したいわけではない(できない)。つまり「必要な分だけはある」と思えることが大事なのであって、それ以上のお金はあまり関係ないんだろう。-そんなとき、先輩たちの笑顔が浮かんだりする。その人たちの暮らしぶりや、ふともらしたひと言を思い出す。 「月10万円、稼ぐのが目標や』「失うものがないって、ほんとに気持ちいいよ!」「新石器時代の暮らしが理想だな」 思い出したら、「なんであんなこと言ったんですか?」と聞きたくなった私みたいに、不安でもやもやすること、ないですか?お金のことは、どう考えてきましたか?

安心貧乏生活
瀧口夕美 
13ページより


庭のことをやればやるほど
お金がかかるなら、

わたしは、やめなければならない。

広い庭は、暮らしの負担になり

わたしは庭を、愛しながら
疎ましく感じていくだろう。


が、庭は、
このNovemberに

お金はかけなくても大丈夫ですよ
必要なだけで十分です

と、メッセージをくれた。


わたしは、安心した。

アパートのベランダにも
種が、芽吹いて、日々育つ。


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