拗らせの中に、本質が隠れている。

僅かな記憶を掘り起こし、昔のことを思い出す。

エニアグラムの理論では、生まれながらにして人格は本質的に決まっているらしい。
そこには、本質的な恐れ、欲求がある。
様々な経験、主にネガティブな経験を通じ、恐れから自分を守るため、欲求を満たすために性格というものが出来上がり、その鎧によって自分を守っていく。
結果として、本質的な部分は、自分でもわからなくなっていく。


幼少期はどんな子でしたか?

この質問から、思いつくワードを並べてみる。

  • 学級委員をやるような、中心にいるタイプではない。

  • 友達の中に何か流行りを持ち込んでくるようなタイプではない。

  • けど、友達と遊ぶ手段として、その流行りものに手を出す。
    (例:ポケモン、遊戯王、・・・)

  • ある特定の友達とずっと仲良くい続けたことはほとんどない。
    ある一定期間、誰かと二人でずっとつるんでいたみたいな時期は過去何度かあるけど、長くは続かない。

  • 誰かに誘われるのは嬉しいし、ホイホイついていく。けどあまり誘わない。

こうやって書いてみたら、今も昔も変わってないなって思う。
結局は、自分を受け入れてくれる輪に入りたい、居場所がほしいだけ。

自分も、今思えば、色々と拗らせてたなぁっておもう。
特に高校生以前は常に他責で生きていて、目を覆いたくなるようなショボい過去だった。
書く気も無かったんだけど、何となく書く気になった。
思い切って、書いてみようか。


小学生の時。

親がテレビでよくサッカーをつけてたりした影響もあり、興味を持った。
サッカー日本代表がワールドカップに初出場を決めたような時期。
当時JFLからJリーグに昇格したくらいの地元のチームの練習場とか、よく連れて行ってもらっていた記憶がある。

けど、自分が通っていた小学校には、サッカー少年団が無かった。
そこで、何となく友達に誘われて野球の少年団に入る(野球も、好きではあった)。

その少年団は、言ってしまえば生徒の親御さんが趣味でやってるようなもの。
楽しくやることがモットーだ!とか言いながら、練習からちょっとエラーするとガミガミ。
出来たことに目をむけようという姿勢が皆無な大人たち。
その大人たちの言行不一致に対して、同じような不満を持つ友達と愚痴を言い合うだけ。

野球をうまくなりたいなんて気持ちは全然なくて、うまくなるための行動もしてない。
元々運動は出来ない方だし、当然うまくならない。
でも、別に全然悔しくもなんともない。

元々サッカー少年団が小学校になかったと言いながらも、本当にやりたいと思ったんなら、クラブチームでやらせてもらう選択肢もあったし、親との話の中で、そういう話も出たような記憶はある。
けど、別にそこまでしてやりたいわけでもなかった。

目的は、その少年団の輪という、”居場所”に居ることだけ。

小学校も高学年くらいになってくると、人数の少ない学校だったから、多分さほど顕著ではなかったけど徐々にスクールカースト的なものが生じてくる。
当時はそんな言葉は知らなかったけど。

他責思考、上記のような姿勢、おまけに身体も小さかったから、スクールカースト下位の扱いを受けるようになっていく。

そういう扱いを受ける劣等感を抱えながらも、目的を果たすために”居場所”には居続ける。
無意識だったけど、しがみついていたのかもしれない。

その目的を果たすことと引き換えに得ていた、スクールカースト下位の扱いを受けることに対する劣等感を、時には全く別の人にぶつけてしまう。

そんな扱いを受けていることの原因が自分にあるし、その劣等感を別の人にぶつけるなんていう、あまりに拗らせた行動をとっていることなど、知る由もない当時の自分。


中学生の時。

何となく部活をやることだけは決めていた。
小学校の時にやっていた野球か、もともと好きだったサッカーをするかという二択だった。

弱小野球部か、市内で強豪校の部類に入るサッカー部で、「締まった活動をしてそう」とサッカー部に入る。
自分の姿勢は小学生の野球と変わらないのに。

スクールカーストのような構図は色濃くなり、周囲の機嫌を損ねなことばかりを考える。
いじめられてたとは思わないけど、いじめられっ子的な行動が多くなる。
それも、自分の居場所にしがみつくために。

高校生の時は、しがみつく居場所すらなかった。


今思うと拗らせすぎて恥ずかしいけど、拗らせていたことにすら、最近まで気がついてなかった。

拗らせ、妬み、恨み・・・
それらの言動には、目的がある。
目的を果たすための手段がおかしいだけ。

その目的、つまり本質的な恐れや欲求が、自分の”価値観”。
そこを満たすために、拗らせるんじゃなくて、自分の強みを使うんだよ。
自覚したことが、まずは第一歩。

居場所が欲しい。
としたら、その居場所に自分の強みを使って、貢献する。発展させる。
これが自分に返ってきて、巡り巡って自分自身に強みを使っているのと同義な状態になる。

書いてて気がついたけど、これ、アドラー心理学における「目的論」じゃん。(なにそれ、っていう人すみません。詳細は割愛します)


なかなか、どんな本を読んでも、どんなワークをしても自分では気がつけない、本質的な恐れや欲求に、気づかせてくれた仲間たちに感謝です😊🙏

最後まで読んでくれた方、ありがとうございました!


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