『どうする家康』を全話観ました

こんにちは。
鴨井奨平です。

大河ドラマ『どうする家康』を全話観ました。
このドラマの脚本を担ったのは古沢良太さん。私は大の「古沢良太フリーク」なので、このドラマは毎週毎週しっかり観ておりました。
せっかく一年通して全話観たので、その感想をここに記そうと思います。

はじめに申し上げると、私は『どうする家康』をほとんど評価しておりません。私は古沢良太さんの脚本作品を多く観てきておりますが、その中でも『どうする家康』は「古沢良太最大の凡作」と言ってもいいのではないかと思います。
以下に『どうする家康』について批判的な意見を述べるので、そういった文章を読みたくない方々は申し訳ございません。
「大河ドラマの批判なんて、お前みたいな売れないクリエイターが生意気だよ」とか思われるかもしれませんが、NHKは公共放送で、私はその受信料もしっかり支払っております。公共放送の内容に文句を言うのはれっきとした国民の権利だと思うので、あえてこの度は『どうする家康』の内容について批判的に述べようと思います。私は普段、他人の作品についてこのようには書かないのですが、あるいは逆説的に「古沢良太フリーク」であるが故にこのような態度をとっているのかもしれません。そして、私の作品に反面教師的に活かすための備忘録でもあります。

1.『どうする家康』の意義(あるいはその独自性)とは
〝徳川家康〟は言わずと知れた歴史上の人物で、徳川家康についてこれまで数多くのフィクション作品が創作されてきました。よって、この令和の時代に、あえて〝徳川家康〟を題材にして、大河ドラマとして作品を作るからには、「これまでの家康作品とは異なる作品」に仕上げる必要があります。でなければ『どうする家康』を作る意味がありません。これまでの家康作品群の中で如何に独自性を発揮できるか、ということです。
しかし私は、『どうする家康』においては、それはほとんど達成できていないと考えます。
そこに描かれているドラマは、はっきり申し上げてあまり珍しいものではありません。なんなら、コーエーテクモゲームスから発売されている『戦国無双』シリーズのドラマとあまり変わりません。これは『戦国無双』をディスってるわけではありません(私は『戦国無双』が大好きです)、どうしてわざわざ満を持した大河ドラマで『戦国無双』のようなドラマをあえて描いてるんだよ、ということです。
申し上げると、『どうする家康』という作品タイトルを初めて見知って、私はこのドラマに大変期待しました。従来の「家康像」を相対化して新たなそれを提示してくれると考えたからです。そして世間ではあまり評価されていないようですが、私は『どうする家康』の1~2,3話くらいを肯定的に評価していました。徳川家康が「英雄」ではなく「ただの凡人」として描かれています。そして私は「(最初から最後まで)ただの凡人」が「どうすればいいんだぁ!」と慌てふためき、叫び続けながらどのようにして天下をとるのか、このような物語が描かれることを期待しておりました。
しかし、話数を重ねるごとにこの「どうする感」は失われていきました。最後の方はあまり「どうする」と迷っていない。ここに作品タイトルと作品自体との乖離があります。
確かに物語結末部分でも家康は「どうする?」と迷っていますが、これは一般的な物語の主人公が抱くのと同程度の「どうする感」です。普通の物語の主人公もけっこう「どうする?」と迷います。作品タイトルが『どうする家康』なのに、その「どうする感」が一般的な作品の域を出ていません。
『どうする家康』は他の家康作品と一線を画すことのできるポテンシャルがあったのにも関わらず、それが活かされていません。
あるいは、「ただの凡人」を主人公にしてはドラマが面白くならない、と考える方もいるかと思いますが、このドラマの脚本家は古沢良太さんです。古沢良太さんならそれができます。いや、そっちの方が古沢良太さんのポテンシャルがより発揮されます。古沢さんは「ダメダメな人間」を魅力的な主人公として描くことができます。かつての月9ドラマ『デート〜恋とはどんなものかしら〜』でそれは証明されています。
『どうする家康』は独自性を持った作品となる可能性が大いにありながら、それが尻すぼみしていきました。
これが、私が『どうする家康』を凡作と評する最大の理由です。

2.諸々の起用に疑問
『どうする家康』は多くの点において「相応しくない」と思われる起用が目立ちました。
その最たるものが、脚本家としての古沢良太さんの起用です。前述した通り、『どうする家康』は一般的な時代劇の枠内にある作品です。だったらば、古沢良太さんよりそれを面白く仕上げることのできる素質を持った脚本家は他にも多くいらっしゃいます。「この物語だったら、古沢良太じゃなくてよくね?」「古沢良太を使うなら、もっと別の話にした方がよくね?」ということです。
他にも俳優の起用にもそういったものが目立ちました。
その最たるものは、井伊直政役としての板垣李光人さんの起用だと思いました。板垣さんは、全く「武士」に見えません。まず体の線が細すぎます。戦国武将とは戦争に明け暮れる「軍人」です。どう見ても板垣李光人さんはそのように見えません。勇猛果敢な井伊直政としては尚更。さらに、板垣さんは井伊直政の晩年(関ヶ原時点で井伊直政は39歳)まで演じていらっしゃいましたが、その様子があまり良いとはいえない。まったく39歳に見えない。いや、見えないだけならいいのですが、少しでも見えるようにつけ髭をしているのが逆効果。似合ってなさすぎて、滑稽にすら見えます。
どのように板垣李光人さんがキャスティングされたのかその経緯については存じ上げませんが、他にもっと適した俳優などたくさんいたと思います。例えば、オーディションをすれば、板垣李光人さんよりも井伊直政に相応しい者は数十人は集まると思います。
ここで誤解してほしくないのは、私はあくまで「板垣李光人さんの俳優としての素質、能力」を否定しているわけではない、ということです。私が批判しているのは『どうする家康』のキャスティング担当のスタッフです。どうして相応しくない、なんならその様が滑稽に見えてしまう俳優を起用したのか。それを演じる俳優も気の毒です。
ここまであえて板垣李光人さんについて申し上げてきましたが、それに限った話ではなく、『どうする家康』ではそういった明らかな「起用ミス」が目立ちます。脚本家や俳優が気の毒です。

3.キャラクターの魅力が掘り下げられていない
『どうする家康』には魅力的なキャラクターがほとんどおりません。それは「キャラクターについて掘り下げが足らない」のが理由だと私は考えております。一方で魅力的なキャラクターはわずかですがおりました。織田信秀(藤岡弘、さん)、武田信玄(阿部寛さん)、豊臣秀吉(ムロツヨシさん)は魅力的なキャラクターだったと私は思います。とりわけ豊臣秀吉は、ムロさんがこれまで演じてきたキャラクターの中で最も魅力的であったと言ってもいいと思います。
しかし、これらのキャラクターが魅力的だったのは、俳優の演技による功績が大きかったと私は考えています。
一方で、脚本や演出によって、キャラクターの魅力が十分に引き出されていないと思われる部分が散見されました。
例えば、織田信長(岡田准一さん)。織田信長が「ただのパワハラ上司」にしか見えません。
前述の井伊直政(板垣李光人さん)。キャスティングが適当ではなく、戦国武将に見えません。
石田三成(中村七之助さん)。これは「映像作品の演技」ではなく、「歌舞伎の演技」です。
真田幸村(日向亘さん)と豊臣秀頼(作間龍斗さん)。とりわけ真田幸村。「乱世の亡霊」とは? 家康に立ちはだかる最後の敵なのに、なんかあっさりと「乱世の亡霊」と括られている。そこに至る経緯の描写が足りない気がする。「乱世の亡霊」って何だ? 判るけど漠然としている。
そして徳川家康(松本潤さん)。家康晩年の演技が良いとは言えません。この演技を高く評価する声もありますが、私はそうは思いません。ただ低い声でゆっくり喋っているだけのように私は感じます。確かに晩年の家康を演じる松本潤さんからは高い集中力を感じますが、「集中力が高い芝居=良い芝居」というわけでは残念ながらありません。とりわけ晩年の家康が叫ぶとボロが出ます。松本潤さんの素が垣間見えてしまいます。凄みもあまりありません。
別に私はここにおいても、「それぞれの俳優の素質や能力」を否定しているわけではありません。脚本におけるキャラクターの掘り下げ不足、足らない演出、そもそものキャスティングを批判しています。
『どうする家康』のキャラクター描写は、首を傾げざるをえないものが多くありました。

4.脚本のエピソード描写に疑問
物語全体の脚本を考えると明らかに、蛇足のエピソードが多く、その反面、描写が十分ではないエピソードが多々あります。
例えば、家康の側室たちのエピソード。物語全体で考えれば必要ありません。確かに、「戦国時代における女性たちの多様な生き様描く」という意図は理解できます。しかしそれを描くことによって作品のクオリティが落ちてしまうなら本末転倒です。
そして瀬名(有村架純さん)の死。ここの部分が「史実と異なる」と批判している方々も多く、それについて私も理解しますが、一方で私は必ずしもそれを悪く思ってはおりません。極論、それによって作品が面白くなればいいと思っています(さすがに限度はありますが)。私がここで批判するのは、わざわざ史実と異なる描写を選択して、長くこのエピソードを引っ張った割には、作品のクオリティが上がっていないことです。この瀬名の死、物語後半ではあまり活きておりません。史実通りにそれほど時間をかけずに瀬名を死なせても、結末部分は変わりませんよね(最終話の最後に回想(走馬灯)シーンで瀬名が出てきただけ)。
またそれにより、織田信長が死ぬまでが長すぎませんか?
それでどうなったかというと、描くべきエピソードが描ききれておりません。
例えば、関ヶ原の戦い、あまり面白くなかったです。残念ながら、映画『関ヶ原』(原田眞人さん監督作品)の方がずっとすごい(この映画はレビューサイトの評価は高くないですけど、私はその年に公開された邦画の中ではトップレベルの作品だったと思っています)。「映画とテレビドラマを比べるなよ」と思われるかもしれませんが、やりようによっては映画『関ヶ原』とはまったく違うアプローチで関ヶ原の戦いを描き、同程度に魅力的なエピソードにすることができたかもしれません。それこそ、もう少し話数を重ねて、関ヶ原の戦いにおける徳川家康の「どうする?」を掘り下げて描写すれば、もっと面白く描けたと思います。脚本家が古沢良太さんなので可能だったのではないかと思います。
そして最終話。「アレは何だ?」と思いました。
放送時間を15分拡大しておいて、20分〜30分は回想(あるいは走馬灯)シーンだったじゃないですか。しかもその内容が「信長の鯉」と「ありがとう、ありがとう、云々」。「信長の鯉」はあまり効果的なエピソードではありませんし、皆してこれまで散々家康さんに「ありがとう」って言ってきたでしょ。これを何回繰り返すのですか。物語の節目節目に「ありがとう」、家臣キャラクターがそれぞれ死ぬ直前に「ありがとう」。もうわかったから。
我々が生きる現実世界では「ありがとう」という言葉は何度も言って構いませんが、物語の中でそれをやると正直クドいです。視聴者は何度同じようなシーンを観せられるのか。
総じて、物語のエピソード描写のアンバランスさが気になりました。もっとメリハリをつけていいと思います。古沢良太さんは本来、そこの描き方が抜群に上手い脚本家なのに。

5.世界情勢の影響
残念ながら、『どうする家康』は世界情勢、あるいはそこから導かれる世相ともあまりマッチしておりませんでした。それに関しては「不運」もあり、必ずしも『どうする家康』関係者の責任ではないと思います。
『どうする家康』の徳川家康は、「平和な世を築くために」と戦争を繰り返します。
これ、今現在も他国で行われている戦争において、多くの人々を死なせている為政者と同じ言葉です。彼らも「平和な世を築くために戦争をしている」と胸を張って言っています。
『どうする家康』における徳川家康の言動ないしイデオロギー、行動原理が、今この時代を生きる日本人にあまり理解され難いと思います。どうしてもそこが引っかかる。
わりと「若者」向けを狙って、その価値観に従って作品を作っているだけに、なおさらです。

上記、私が『どうする家康』に対して抱いている「個人的な意見」です。
繰り返しますが、私は普段、このように他人の作品をこき下ろしません。むしろ、その良いところ見つけて積極的に褒めることに努めています(そっちの方がスキルが伸びると考えているから)。
しかし今回はそのようにできませんでした。なぜか。
おそらく、『どうする家康』の脚本家が、私が脚本家として敬意を抱く古沢良太さんだったからかもしれません。その期待に対するギャップに、私自身が耐えられなかったのかもしれません。古沢良太さんは時代劇にあまり向かない脚本家なのかもしれない。
おそらくこれは、同じく古沢良太さんが脚本を執筆した時代劇『レジェンド&バタフライ』における明智光秀(宮沢氷魚さん)と同じ心境なのだと思います。まさかこれ程までに、彼の気持ちを理解できる時が来ようとは……。

今回はこのへんで筆を擱きます。

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