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【絆光記】正しいイルミネーションスターズと、間違えた3人の少女

突然だが、アイドルという職業に対して抱く印象というのはなんだろうか。

綺麗。繊細。大胆。可愛い。カッコいい。努力家。天才。カリスマ。

そうした人並外れた何かを持ち、ステージの上でライトの光を浴びて輝き、人々を魅了する。

アイドルマスターとかいうゲームにハマって涙を流すオタクが今更言うような言葉でもないが、僕はそういった姿を本当に、心の底から、大変気持ち悪いと思っている

そうしたアイドルの姿に人は焦がれ、アイドルの人生に憧憬を抱き、アイドルの語る美しさに世界が動かされる。

最悪だ。

アイドルとして生きられるような人間が見ている世界はさぞ美しいことだろう。人の善意が世に溢れ、互いに感謝を忘れず、美味い飯を食い、自分たちの歩みが意味を成していると実感しながら生きているのだろう。

そんな人間が語る境遇に、努力に、絆に、一体どれだけの意味があるのだろうか。

…………と、一通り卑屈になってみせたところで、遅ればせながら本題に入ろう。


イルミネーションスターズによるイベントコミュ『絆光記』を読み終えた時、僕の心の中では二つの人格が語り合っていた。

イルミネーションスターズ、大好きだ……」という自分と、「イルミネーションスターズ、大嫌いだ……」というもう一つの自分だ。

冒頭でいきなりイルミネの皆さんに対して無礼な挨拶をしたのは後者の自分だが、勿論これは正しい見方ではない

ここまでの文章に同意してくれた人には正気に帰るようで申し訳ないが、現実としてイルミネーションスターズを含むアイドルたちがその人生を賭してステージ上で表現するものは美しいはずだ

より客観的な言い方をするのであれば、それは大多数のマジョリティにとって価値のあるものだろう。


僕みたいな根暗陰キャオタク人間がどれだけ「イルミネって無断転載されたペット動画まとめをみんなで見てそう」とか悪口を書いたところで、彼女たちの放つ美しさとその価値が揺らぐことなどない。

勿論、ここで「いや価値というものは個人の中で常に変化するものであって~」という文句をつけることも可能だが、今回の論旨はそうではない。

この記事が語るべきことはただ一つ、「『絆光記』によって浮かび上がるイルミネーションスターズの正しさと、櫻木真乃・風野灯織・八宮めぐる個々人の影響力について」である。

『絆光記』では、櫻木真乃・風野灯織・八宮めぐるの3名にそれぞれの形で「間違い」を突き付けられる。

誤解のないように言っておくが、僕は今回彼女たち3人が”間違えた”ことについて批判的な目線はさほど抱いていない。

大切なのは「ずっといい子ちゃんたちであったイルミネーションスターズの3人が明確な間違いを経た」ということなのだ。

それは、ずっと”イルミネーションスターズが大嫌い”だった僕にとってはある種待ちわびた光景であり、”イルミネーションスターズが大好き”だった僕にとっては心配で胸が痛くなる、そんな出来事だった。


ところで、ネイティブアメリカンの道徳物語に以下のような話があるという。

 ────おじいさんが孫の男の子に語って聞かせた。
「わしの心の中には、オオカミが2匹住んでいる。この2匹はいつも激しく戦っている。
1匹は悪いオオカミだ。短気で、欲張りで、嫉妬深く、傲慢で、臆病だ。
もう1匹は善いオオカミだ。平和を好み、愛情深く、謙虚で、寛大で、正直で、信頼できる。
この2匹は、おまえの心の中でも、他のすべての人の心の中でも戦っているのだよ」
 孫は少し考えてから尋ねた。
「どっちのオオカミが勝つの?」
 老人は微笑んでこう答えた。
「それは、おまえが餌を与えた方だ」(※引用)


正直に言おう。僕は、悪いオオカミだ。

イルミネーションスターズはいつも、綺麗な格好で綺麗な言葉を放つ

先に言っておくが、この記事で書かれる主観的な感情は全て矛盾している。

筆者である僕は先述の通り、イルミネーションスターズが大好きで、イルミネーションスターズが大嫌いだからだ

イルミネーションスターズは、およそ人格的な面で欠点と言うべきものをほとんど持たない(もちろん、人格以外の面では個々に目指すべきものや改善すべきものがあり、日々そこに向かって歩み続けているのだろうが)大変立派な人間が集まって構成されている

そしてその印象は決してプレイヤー側だけに見えているものではなく、シャニマス世界においてもほぼ変わらない面を見せながらファンを獲得しているように思われる。

ファミリー層の獲得にもしっかり成功しているもよう

ここまで読んだ勘のいいガキの皆様には既にお察しいただいていると思うが、僕は絆光記における登場人物:ルポライターに非常に近い感性を持ってイベントを迎えた

僕は実のところ、イルミネーションスターズの掲げる「無限の輝き」のような”正しい”物語が非常に苦手だ。

身の上話で恐縮だが、学生時代の僕は自分も周囲も家庭内不和が目立ち、決して小さくはない犯罪に巻き込まれ、親や大人といったものを信用できず、友人に助けられながら生きてきた。

そのせいもあってか、”家族”や”社会”といった幸福なマジョリティにおいて正しいとされるものを礼賛する気にはなれなかったし、そうしたメッセージを放っている人間や作品に良い印象を持つはずもなかった。

そしてより正直に言えば、その感覚は学生でなくなった今もまだ全て拭い去れているとは言い難い。

だからイルミネーションスターズが大嫌いな方の僕は、シャニマスを始めたての頃「お綺麗な格好してお綺麗に育ったお嬢さんたちがお綺麗な言葉を並べておりますなぁ」と異様に斜に構えてコミュを読んでいた。

絆光記では主に「光」と「闇」というような表現で代替されたが、ルポライターの語る「役立たずの光たち」とはおおよそ自分のようなマジョリティの形式に馴染めなかった立場から見たイルミネーションスターズを指しているのだと受け取った。

その一例として中でも強く印象に残った登場人物が、以下の「困っている女性」だ。

この女性は今、誰のせいで困っているのだろう?という問いを感じてしまう良モブネーム

この女性を始めとして、絆光記ではイルミネーションスターズの3人それぞれが「言葉による間違い」に直面する。

この困っている女性は(シナリオ上どこまで意図していたものかはさておき)昨今Twitterで話題となった「身に障害を抱えた人間は周囲への感謝をしなければ生きることを許されない」というような問題を想起させる存在だ。

これは何も身体的な障害を背負った人間だけに限った問題ではない。精神的な障害や病気はもちろん、貧困を抱えた人間などにも似たような社会問題は常に付き纏っている。

無論、イルミネーションスターズの3人は(現状描かれている範囲では)そういった問題とは比較的無縁の人生を送っていることだろう。

だが、人間の生活は時折、そうした社会問題と無関係に生きてきた人間でさえも問題と無関係ではいられなくなる瞬間が訪れる。


アイドルマスターシャイニーカラーズでは、これまで「アイドルという世界に飛び込むこと」≒「社会へ飛び立っていくこと」という図式で様々な物語を紡いできている……と、僕は思っている。

例えば小宮果穂さんという小学生が自分よりも大きな社会を生きる大人たちと出会い、接し方を学ぶように。

例えば浅倉透という少女が、自分たちを律し飲み込もうとする社会という大海で呼吸をしようともがくように。

例えば七草にちかというアイドルが、社会では自分自身を傷付けるのが当然であると思い、駆け出していったように。

そして、イルミネーションスターズはいつも、綺麗な格好で綺麗な言葉を放ち、社会的に正しい存在であった。

ステージの上で輝く、正統派アイドル。

イルミネーションスターズは、アイドルのイデアが形になった「正しいアイドル」だ。

見ていると元気がもらえて、辛い時には励ましてくれて、自分の隣に寄り添ってくれているように感じられる。

だが正しい場所で正しく生きられなかった者にとって、それはあまりに息苦しい輝きであることを、彼女たちは知らなかった。

いや、もしくは知っていたうえであえて口にしなかったのかもしれない。

【青空、駆けていく】

アイドルとして社会へ羽ばたいた櫻木真乃・風野灯織・八宮めぐるの3名はもう問題と直面し始めている。

相手のことを思ってかけたつもりの言葉で相手を困らせてしまったり、相手のために考えた言葉でもその通りには受け取ってもらえなかったり、時には相手のためにかける言葉すら見つけられなかったりして。

人はいつ、どんな立場で、どのような力を持ったとしても、”正しい”言葉を知らないということを。

人間の、八宮めぐるさん

八宮めぐるという人間を一言で表してください、と言われたらあなたはどう答えるだろうか。

僕だったら、その場で浮かんだ「スーパーウーマン」「完璧美少女」といった工夫もデリカシーもない言葉を平然と投げかけてしまう気がする。

八宮めぐるさんは、イルミネーションスターズの中でも特に人間同士のすれ違いや孤独といった機微に敏感な人であるように思われる。

それは言うまでもなく彼女の生まれや育ちに影響するところであり、その経緯を経てなお、他人へ向ける善性が一際輝いているというポイントこそが彼女を「スーパーウーマン」足り得るものにしている。

しかし、そんな八宮めぐるさんとて人間であり、間違いを犯す。いやむしろ、間違いを理解した後でより正しい方向へ歩む姿こそが八宮めぐるさんの軸であると言っていいだろう。

そんな八宮めぐるさんが直面したのは、「自分のようになりたかったと語るアイドル」と「自分と対等でない少女」。

僕が興味を惹かれたのは、特に後者の女性との対話だ。

田舎で暮らすその少女は「八宮めぐるが田舎で苦しい思いをしている自分と対等であるはずがない」と思い込んでおり、八宮めぐるというアイドルを拒絶する。そしてその主張は、実際のところ客観的に見ても概ねそうであろうと言えた。

イルミネーションスターズがどれだけ綺麗な言葉を紡いでも、現実にはその”綺麗な言葉”の輪にすら入れない人間がいる。

問題があり、格差があり、理不尽があり、背負った過去があり、変えられない現実がある。

僕はその事実に、後ろ暗い興奮を覚える。

これはいつだって正しかったアイドルが、正しくない場所まで引きずり降ろされたかのような、親近感だったのかもしれない。


だがそもそも、”対等”とはなんなのだろうか?

人間は誰もが同じではないことを、八宮めぐるという少女の物語では幾度も異なるベクトルで触れてきていた。

田舎の少女から見て八宮めぐるが自分よりも社会的に遥かに高い位置にいることと、自分が苦しんでいる現状を合わせ見た時、それが激しい劣等感や嫉妬に変化するのは当然のことだ。

だが、それでも八宮めぐるはそんな女性に話しかける。対話を用いて、理解と共感を持ちうる機会を伺っている。

そうして辿り着いた「人間じゃん」と、その次のシーンでは、八宮めぐると互いに笑い合う少女の姿が映し出される。それはまさしく、対等な二人の少女でしかあり得ない光景だろう。

つまるところ、真の対等とは対話する姿勢によってこそ作り上げられるものなのではないか、と僕は思うのだ。


アイドルという存在は、特別だ。そこに対して対等な存在というのは、同じステージに立っている者たちだけで、他の人間はどんな地位や権力があろうとも対等にはなり得ない。

だが、シャニマスにおいてはこれまでずっと描かれてきたようにステージに立っていない時間、彼女たちはアイドルである以前に一人一人が人間だ

人間であるなら、対話が可能なはずだ。

対話が可能であるなら、対等にだってなれるはずだ。

イルミネーションスターズという正統派ユニットによって”正しいアイドル”になってしまった3人は、対話によって人間に戻る。

絆光記では正しいイルミネーションスターズと、人間の櫻木真乃・風野灯織・八宮めぐるの3人がそこにいる。

王と蚤とオオカミ

イベント画面では特殊な演出が加わっている1枚

【王と蚤(のみ)】、オートノミー。

アホみたいなダジャレに思われるかもしれないが、個人的には絆光記における重要な要素の一つが隠されたカード名だと思っている。

イルミネーションスターズはいつだって正しいアイドルだが、正しいだけで人を救うことはできない。

それは他ユニットを含む、シャニマス全体が長きに渡って描いてきたことでもある。

個人の幸福を追求することは、その人自身にしかできない

アイドルは元気をくれるかもしれない。生きる希望を見出させてくれるかもしれない。

だからと言って、アイドルはあなたの家庭の不和を解決しないし、クラスでいじめられているあなたを救い出せないし、あなたの背負った借金を肩代わりはしないし、あなたの就職を手助けしたりもしない。

アイドルにできるのは、ただ自分たちの送り出した光を受け取った人々が自身の幸福の追求を行うために使って進んでくれることを祈ることだけ。

即ち、究極的には受け手のオートノミー(自主性・自立性)を信じる他に、アイドルにできることは何もない。

勿論、他ならぬアイドル自身も自身の幸福の追求を行っている最中だ

絆光記では、それが幾重にも渡って広がっていく様子が丁寧に描かれている。

八宮めぐるというアイドルを疎んでいた田舎の女子も、46歳で反抗期のルポライターも、イルミネが宣伝した大荒れの映画を観たオタクたちですらも。

皆が皆、言葉について間違いを重ねたうえで自分の幸福について考え直し、そして自分の手で幸福を掴むために進んだ。

それはイルミネーションスターズである前に人間である櫻木真乃が、風野灯織が、八宮めぐるが対話と祈りを持ち合わせていなければ、どこかで成立しなかったかもしれないオートノミーなのだ。

正しさの光たるイルミネーションスターズの善性に救われない者がいる。

だが、そうした陰の人間たちもまた、イルミネーションスターズの3人と同じように自分の幸福を追求することができる。善なる結果を、追い求めることができるのだ。

どんな人間でも自分の中の善いオオカミに餌を与え、自分自身を救い出すために進むことができるし、進んでいい。

だとするなら、人は究極的にはイルミネーションスターズのように正しく、善なる生き物なのかもしれない。

私たちは、光について語らなければならない

マキャヴェッリ、ホッブズ、フロイト、教父アウグスティヌス。

人間は歴史上、西洋思想を始めとした「人間の本性は悪である」という所謂ベニヤ説に踊らされてきた。

実際のところ、僕は生きてきた環境が環境だけにこうしたシニカルな思想に動かされそうになったことは幾度もある。

人は弱く、暴力や悪意に飲まれやすい。そして偽善的である、と。

だが、近年ではこういった説は間違いで、本当に人の歴史を作り上げてきたのは他ならぬ人の善性なのではないか、という議論が活発なのだという。

善いオオカミと悪いオオカミはどんな人間の心の中にもいるというが、僕は今まで随分と悪いオオカミにばかり餌を与えてきた。

イルミネーションスターズのことが大嫌いな僕ばかりが顔を出すようになり、どこかでイルミネーションスターズに大きな悪意が向けばいいとすら思っていた。

けれど、それではイルミネーションスターズの、いや櫻木真乃・風野灯織・八宮めぐるの3人の足元にも及ばないのだ

絆光記における「光」とは、俯いた「陰」の者の顔をそれでも上げさせる光のことだ。自らの幸福を追求するために足を前に進めるための光なのだ。

イルミネーションスターズは、これからも輝きを皆に届けるために変わらぬ姿を、ずっとステージの上で見せ続けるだろう。

その度に、今回のように光が届かなかった者を見つけては悩み、考え、祈り、そして歌う。

【WtoW】

僕は、そんなイルミネーションスターズが大好きだ

僕がこれから行く道とイルミネーションスターズが交わることはないかもしれないが、それでも僕が自分の幸福のために顔を上げることがあったなら、その度にイルミネーションスターズと絆光記のことを思い出すのだろう。


そういうわけで、僕はこれから善いオオカミと、喧嘩をしてこようと思う。

引用
・アイドルマスターシャイニーカラーズ
・(※)HUMANKIND 希望の歴史 ルトガー・ブレグマン著

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