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スタッフロールと僕

ご無沙汰しておりました。
皆さんお元気ですか?
僕は何とか元気でやっております。

さて、今回は「スタッフロール」というテーマで書いてみたいと思います。
あの番組の最後にスタッフの名前がずらーっと出るあのヤツです。

つい最近ですが、とある番組の音声のお仕事をさせて頂き、
有名なアナウンサーの方や東京の第一線で活躍されているカメラマンの方、
ディレクターの方と共に、地方のちっぽけなプロダクションの私なんぞが
音声スタッフとして名前を出して頂き、
名前が流れた瞬間は「あぁーーーーっ」と声が脳内で響き渡るくらい
感激した瞬間でした。

最近のテレビ番組はオープニングも挨拶もなく、
「今日のテーマは!!」とスタートしたと思ったら、
エンディングは「さようならー!!」と挨拶もないまま、
次週の予告とともに、凝視しても読み取れない位の速さで、
スタッフロールと制著(制作著作:〇〇テレビ)の
文字スーパーが流れて終わるという、
なんとも味気も素っ気もないまま番組が終わってしまいます。

ちょっとひねくれているかもしれませんが、
作った人や会社を冒涜してるのか???…と思ったりする自分もいます。

思い返すと、僕がこの仕事を始めて初めて名前を出してもらえたのは、
今から17年前に関わらせて頂いた、「J:COM札幌」というケーブルテレビで
放送していた「noiseTV」という音楽番組の音声をやらせて頂いた時でした。なかなかファンキーな番組でした…色々な意味で。

もちろん「音声」とは名ばかりで、
ただガンマイクを持ち、照明を仕込むにもアタフタ…
ゲストに出て頂いたクレイジーケンバンドの横山剣さんに
ピンマイクをつけさせて頂いた時はもう生きた心地はしない位のド緊張でした。
何も出来ない少年にチャンスをくれた当時のスタッフの方からの
ありがたいご厚意だったのでしょう。感謝してもしきれない位の思いです。

決して経済的にも裕福でない家庭に育った僕を年間数百万円もかかる
専門学校へ行かせてくれた親には
「俺!本当にテレビの世界でやっと働いたぞんだ!!」とアリバイの様な
気持ちと嬉しさで当時番組を録画したVHSテープを実家へ送った思い出があります。

それから札幌を離れ、旭川へ移り住みカメラマンとしての修業が始まった時、僕は報道担当のため、決して楽しく輝かしい場所ばかりでない現場も多く、大抵は1分のニュースの中で完結する放送で、「自分がこの仕事に関わりました」と証に残るようなことはなかなかありませんでした。

しかし、人生の転機と言いますか、カメラマンとして仕事をする上で
礎になったある取材が、30分のドキュメンタリー番組として放送される
こととなったのです。しかも、全国放送で!!!
取材を始めた頃は、夕方のローカルニュースの特集コーナーだけの放送と
いう事だったのですが、その後いろいろな発展があり、取材を続け、
まさか・まさかのドキュメンタリー番組として放送となりました。

その番組は、一緒に取材をしていたディレクターさんがいましたが、
なかなか一緒に取材が出来る環境ではなかった為、ひとりでカメラを持ち、取材先に出向いてインタビューやらなんなら取材交渉までやるという荒々しい環境の中で取材を進めていき、苦労も多かったですが、本当に番組というものを作る大変さも楽しさも学ぶ大きな財産になった出来事でした。

その番組の最後、撮影・取材 (僕の名前)
という形で、自分がカメラマンとしてこの番組に関わったという
事実を改めてテレビ画面を通じ確認できた時。
改めて仕事への責任や取材をさせて頂いた方たちや一緒に苦労をして番組を作り上げて頂いた仲間の皆さんへの感謝の気持ちを改めて感じました。

そして何よりも貧乏なのに専門学校へ行かせてくれた家族には、
数秒だけ自分の名前が出るという、知らない人にとっては何てことのない事出来事ですが、苦労を掛けた親に少しだけ「安心」させることが出来た瞬間でもありました。

ありがたい事に、今も何とかこの世界で生きていれているのは、
僕を0から粘り強く育てて頂いた方がいるからな訳で、
自分の名前がスタッフロールに出る事は、
お世話になった方へ「まだ僕腐らずに続けていますよ!」と
そっと伝えられる大事なモノなのかなと…

たかが名前・たかが会社名
文字スーパーとしてテレビに映されることは、
責任感や仕事へのやりがい、そして取材させてもらう方たちや
一緒に仕事をする仲間、家族を思う気持ちの原動力となる、
大きな存在と思っているのです。










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