ミギオレとサザンカさん

[ミギオレ]

その男の鼻は右に少し折れていた。それ故にその男はミギオレと呼ばれていた。少なくてもわたしの店に集う若者は皆、彼のことをそう呼んだ。
わたしの店は県立大学の近くにあり昭和の初期から創業を続ける喫茶店で、授業を終えた学生が待ち合わせ場所に使うことが多かった。
ミギオレもそこの大学の学生で、ひょろりと背が高く目鼻立ちのくっきりとした優男であった。明るい性格で友達も多いようであり、時折ガールフレンドを連れてやって来たが同じ女性を二度連れてくることはなかった。

ミギオレが珍しく黒いスーツを着て現れたのは年をまたいだ1月の半ば、3日降り続いた雪がやっと落ち着いた日であった。わたしはいつも小さな音でジャズのレコードを流していたが去年の暮れから蓄音機の調子が悪く、時折鈍い奇妙な音を立てていた。店の端のボックスの席に二人の中年の女性が世間話をしているだけで、朝食を食べ終えた客のほとんどが席を立ち、あまり人の来ない時間帯だった。この時間にミギオレが訪ねてくることは珍しいことだったが、彼はいつもの明るい調子のままカウンター席に腰かけ、腕にかけていた厚いコートを隣の椅子に置いた。
「爺ちゃんが死んでね。この後葬式なんだ。気が滅入るな。」
ミギオレは胸のポケットから煙草を取り出し口にくわえた。わたしは灰皿を差し出してポットを火をかけた。
「それは残念だったな。お祖父さん、幾つだったんだい。」
わたしはミギオレの顔を見ることなく作業の手を止めずに問いかけた。彼の明るい調子につられぬように声を抑えたつもりだったが、彼にはそこにいるだけで周りを明るい雰囲気にしてしまう不思議なところがあった。
「八十二だよ。面白い人だったけれど変わった人だから、嫌われることも多かったんだろう。」
そう言うと彼はくわえていた煙草にやっと火をつけた。深く吐いた煙がわたしの手元まで流れてきて消えていった。朝一で挽いた珈琲の入れ物の蓋を開けると、ふわりと芳ばしい香りが広がったが、彼にその香りが届いたかどうかはわからない。
「爺ちゃん末期の癌だったんだけど、最後はホスピスでぽっくり逝ったよ。夜中巡回の看護師が来るまで誰も気がつかなかったんだ。」
ボックス席に座っていたご婦人方が席を立ち、お金を置いて店から出て行った。わたしは軽く手を上げて二人を見送った。時計はもう少しで11時になる頃で、ミギオレとわたし以外店には誰もいなかった。
「婆ちゃんは三年前に死んだけど、子供も孫もいるのに誰も爺ちゃんの死に目には会えなかった。ひとりきりで死ぬのはどんな気分なんだろうな。」
「みんな死ぬのはひとりきりさ。どんなに家族が看取ったって皆ひとりきりで行っちまうものだよ。」
熱く沸いたお湯を注ぎながらそう返すと、彼は少し鼻で笑いながら煙草を口で咥え、ゆっくりとした動きをしながら黒いジャケットを脱いでコートを置いた席にまた無造作に被せた。
「爺ちゃん陶芸家だったんだ。稼ぎはそんなになかったから婆ちゃんが家計を支えてたって父ちゃん言っていたよ。ろくでもない奴でさ、酒は飲むし昔は結構借金もあってさ、浮気もしてるって皆愚痴ってた。借金は婆ちゃんと父ちゃんで全部返したんだ。婆ちゃんになんで別れないんだって父ちゃんがよく言っていたらしいけど、最後まで婆ちゃんは女の意地だって言ってたってよ。でも爺ちゃんは俺にはすごく優しくしてくれたよ。孫は俺ひとりだったしな。結局爺ちゃんのことを好きだったのは婆ちゃんと俺だけだったんだな。」
ミギオレの前に置いた白いカップに注いだ珈琲は濃く深い色をして表面を揺らしていた。短くなった煙草の火をもみ消して神経質そうに灰皿の端に立てかけるのが彼の癖だった。わたしはカウンターの中の大きくはない店の全てが見渡せる位置にある椅子に腰掛けて煙草に火をつけた。
「陶芸は珍しいな。陶芸家なんていうのは稼げない職業なのかい。」
彼は珈琲を一口啜りわたしをちらりと見た。人より大きなその目はいつもの明るさを保っていたが、眉が少しだけ寂しげに傾いていたように見えた。彼は鼻の先を少し触って笑っていた。
「売れるものを作れば稼げるさ。量産品っていうのかな。でもそんなものは作らなかったし、人に教える才もない人だった。俺は爺ちゃんの作品が好きだったけど、孫が好きでもしょうがないんだ。婆ちゃんよく言ってたよ。芸術家は才能よりも人望が大事だって。」
ミギオレはもう一本煙草を取り出して慣れた手つきで火をつけた。調子の悪い蓄音機がまた鈍い音を立てたから、わたしは立ち上がって蓄音機の前に立ち電源を落とした。静かになった店内には微かに雨の音が聴こえていた。
「降ってきたな。」
わたしは彼に言うでもなく呟いて、少し体を伸ばし窓の外を覗いた。それにつられて彼も窓の方に顔を向けた。朝の天気予報では午後から降ると言っていた雨は、冷たく積もった雪の上に降り続いていた。

「爺ちゃんはあまり笑わない人だったけど婆ちゃんは反対によく笑う明るい人でさ。男勝りで一日中働いて、俺の面倒もよくみてくれる人だったよ。
でも一度だけ婆ちゃんが泣いてるのを見たことがあるんだ。よく覚えてるよ。」
ミギオレは机の上で湯気をたてている珈琲に視線を戻して懐かしむように言った。珈琲から出る湯気と、ミギオレの指の間に挟まれた煙草から出る煙が渦を巻いて高く昇っていた。
「雨の日だった。俺はまだ小学校の低学年で、振り回して壊れた傘を持ってずぶ濡れになって家に帰ってきたんだ。そしたら婆ちゃん縁側で雨が降ってる空を見上げながら泣いてたんだ。その頃は何かを悲しんで泣いていると思っていたけど、今考えるとどこか嬉しそうだったような気がする。」
わたしはミギオレの煙草の先の落ちそうな灰を見つめながら話を聞いた。ミギオレはそれに気がついたのかそれとも無意識か、灰皿に煙草の灰を落として話を続けた。
「ずぶ濡れの俺に気がついて婆ちゃんが走ってタオルを取ってきてくれてさ、頭をガシガシ拭いたんだよ。俺の。それで俺がなんで泣いているのか聞いたらさ、『あの人がつまらない人になってしまったからよ』って笑ったんだよ。婆ちゃんがあの人って呼ぶのは爺ちゃんだけだから、あぁ爺ちゃんが婆ちゃんを泣かせたんだなって思ったのを覚えてるよ。その時はそれ以上聞かなかったけど。その事があってから昼でも夜でもふらふらと出かけてた爺ちゃんは工房に篭るようになった。陶芸の作品はたくさん作るようになったけど、酒の量も同じように増えているみたいだった。婆ちゃんが泣いているのを見たのは後にも先にもそれだけだな。」
降り出した雨のせいで少し冷えた店内の暖房の温度を上げようと、わたしはゆっくりとカウンターの中から店の真ん中に置いてあるだるまストーブまで歩いた。ストーブの横にしゃがもうとすると、それを止めるようにミギオレが言った。
「少し寒い方がいいや。いいだろ。」
「もちろんさ。」
わたしはミギオレの言葉に従い、ストーブは動かさずに近くにある席に座った。彼は体を少し動かしてわたしに横顔を見せながら話を続けた。
「婆ちゃんが死んだ時、葬式の後で爺ちゃんがひとりで工房にいてさ、俺は爺ちゃんを呼びに工房に行ったんだ。そしたら爺ちゃん俺には気がつかずに、『ごめんな、ごめんな』って呟いてた。俺が誰に謝っているのって聞いたら爺ちゃん俺に気がついて、『大事なもんはいくつも手に入れることはできねぇんだ。』って言ったんだよ。俺は陶芸を大事にしすぎて婆ちゃんに苦労かけたからそう思うんだなと思ってさ。あん時はなんにも言ってやれなかったな。」
明るかったミギオレの目は、見た事がないほどに悲しみを表し始めていた。その青年を見ながらわたしはかける言葉を探したが、上手いこと言葉は出てくることはなく頭を掻いた。

「その頃さ、俺にもちゃんと付き合っている女がいたんだ。高校生で好きだの嫌いだの言うのを馬鹿にする人もいるけど、本当にそいつが好きだったし、高校を出たら働いて結婚しようと思ってたんだ。」
ミギオレの顔はその話をすると明るさを取り戻し、わたしに少し恥じらいを含んだ目を向けた。わたしは笑顔を向けながら彼の目を見返した。
「でもさ、それを爺ちゃんに話したら爺ちゃん真剣な顔になって『一番好きな女とは結婚すんじゃねえよ』って言ったんだ。俺さ、どうしてか聞いたんだ。婆ちゃんのことは愛してなかったのかって。そしたら爺ちゃん、『婆ちゃんのことは愛していたさ。でもな、大事なもんはいくつも手に入れることはできねぇからだよ』って。ああ爺ちゃんには他に好きな人がいたんだなってその時知ったんだよな。」
ミギオレはカップを手に持って珈琲を啜った。もう珈琲は冷めているだろうと思ったが、ミギオレは大きくため息をついた。
「それからさ、俺、その子と別れたんだ。別に爺ちゃんの言うことを聞いたわけじゃないけど、幸せにできる自信がなかったんだろうな。その子さ、この前結婚したんだよ。違う男と。今でも俺、その子のこと一番好きだけど、爺ちゃんみたいになっちまうのかなと思ったよ。笑えねぇよな。」
そう言ってミギオレは明るく笑った。

それからミギオレはしばらく黙ったまま煙草を吸っていた。灰皿には端に立てかけた煙草が植物のように連なっていた。残った珈琲を一口で流し込むとミギオレは立ち上がって黒いジャケットに腕を通した。
「爺さんが大事にしていた山茶花の木が家にあるんだ。切ってしまうのも忍びないし、どうしたものかな。」
ミギオレは明るい表情を取り戻していて、黒いスーツにあまりにも不似合いだと注意してやりたくなるほどだった。
「山茶花の花がお好きなご婦人が常連でいるんだ。その人に貰ってくれるか聞いてやるよ。」


[サザンカさん]

「あら、ありがたく頂くわ。その青年によろしく言っておいて頂戴な。今は山茶花が綺麗に咲く頃ね。」
サザンカさんはそれからすぐ、いつもの時間にやってきていつものようにサンドイッチと紅茶を注文した。サザンカさんがいつからこの喫茶店に出入りするようになったかは覚えていないが、カウンターの席にひとり座り昼食をとり、常連のご婦人方とたまに言葉を交わしたりして帰ってゆく。常連の青年から山茶花の木を貰ってやってくれないかとわたしが言うと、喜んで快諾してくれた。色の白い肌に日本美人というような細い目をしていて、笑うと一層細くなる目が印象的だった。冬の間厚いコートを着ているとコートから出る首元や手首なんかが心配なほどに細く華奢なので、しばらく前にわたしがつい「お加減はどうですか」と聞くと、「あら、病人じゃないのよ」と笑われてしまったほどだった。

「サザンカさんと呼ばれているんだからきっと山茶花が好きだろうと思ったんですが、迷惑でしたら申し訳ない。」
わたしが笑いながらそう話すと、彼女は食べ終えたサンドイッチの乗っていた皿を少しだけ机の奥に押して、紅茶のカップを右手で優雅に持ちながら笑顔を向けてくれた。わたしは洗い終えた皿を布巾で磨きながら少し俯いていた。
「山茶花の木は家にもうたくさん植えてあるんですけど、あの花はいくらあっても足りないわ。もちろん山茶花の花は大好きだけれど、、、」
サザンカさんは口ごもったように見えたが、ただ紅茶に口をつけただけだったのかもしれない。店には雨の音が微かに響き、古ぼけた文庫本を持った常連の老紳士がいつもの席で窓の外を眺めていた。少し離れた席には中年のご夫婦が食事をしていた。この二人は今日初めてこの店に来たように思う。
サザンカさんは紅茶のカップをソーサーに戻すと右手を口の横に添え、お茶目な顔でカウンターを挟んで立つわたしに向かって小声でこう言った。
「好きな人が山茶花の花が好きだったのよ。」
サザンカさんはクスクスと笑い、細い指で白く美しい自らの髪を撫でた。恥じらっているようでもあるが、この話をしたくてたまらない子供のようでもあった。
「好きな人ってご主人ですか。」
わたしはそう問いかけた直後に無粋だったと後悔した。普段から彼女は小さな声で話をするのだが、今日一段と声を抑えているようだったので、わたしは皿を拭く手を止めて少しだけ前のめりになって話を聞いた。
「いいえ。もちろん主人を愛しているけれど、昔ね、長く好きだった人がいたのよ。その人は山茶花の花が大好きだったの。わたしは体が弱くてね、よく入退院を繰り返していたわ。でもね、この時期になると彼が綺麗な山茶花の花を持ってきてくれたのよ。枕元に置いて。それを眺めるとあの人を思い出せるの。」
サザンカさんは笑いながらそう言ったが、わたしは少しだけ戸惑った。ご主人以外の好きな人というものがいる事を、こんなにもはっきりと答えてしまえるものかと驚いたのだ。
「どんな方だったんですか。」
わたしはその相手に興味があったわけではなかったが、いつも控えめなこのご婦人の恋物語が聞きたくなった。サザンカさんは少し考えながら、しかし考えなくてもすらすらと答えてしまえるのだろうと思えるほど、その相手の記憶は鮮明に用意しているように見えた。

「出会ったのは若い頃なのよ。わたしも彼もこの辺りに住んでいて、よく顔を合わせてお話もしたわ。芸術家志望の青年だった。わたしはとても彼を好きだったし、彼もわたしを好いてくれていたと思うわ。」
サザンカさんはいつも見る姿よりも少し若くなったように見えた。お年寄りが昔の記憶を話す時、誰しもがそう感じるのではないかと思う。
「でもわたしは彼との結婚を望まなかったの。わたしは体が弱かったから入退院を繰り返していたわ。彼を支える力はわたしにはなかったのよ。」
わたしは話を聞きながら彼女のか細い指が冷めた紅茶のカップの縁をなぞるのを見ていた。紅茶は、彼女が指を動かすたびに微かに揺れていた。
「それは残念ですね。」
わたしは彼女に聞こえるか、聞こえないかほどの小さな声で呟いたが、彼女の耳にはしっかりと届いていたようだった。
「そんなことないのよ。でも、そうね。その時のわたしはとても残念がっていたわ。」
サザンカさんが羽織っていた厚手のカーディガンはくすんだ青色で、彼女の肌の白さを引き立たせていた。
「そのうちわたしは別の男性と結婚をしたわ。その人にはある程度の稼ぎがあったし、両親もそれを喜んだの。もちろんわたしも喜んだわ。とても良い人だったから。」
気づいたら常連の老紳士も、中年のご夫婦も席を立っていた。机の上にはそれぞれ小銭が転がっていた。
「わたしはじきに子供を産んだの。難産で何時間も病室で苦しんだけれど元気な女の子を産む事ができたし、その後、孫もできたわ。彼も別の女性と結婚をして子供ができて、孫も生まれたと聞いたわ。でもわたし達は時折会っていたし、わたしが入院をするたびに彼は主人の目を盗んで面会に来てくれていたの。」
サザンカさんは優しい笑みを浮かべていた。それは悲しみのない清々しい顔だった。
「わたし達の間には愛の言葉も体の触れ合いもなかったけれど、楽しい日々だった。いろんな人を不幸にしたのだと思うけれど、わたしは幸せだったわ。でもある時期わたしの心臓に大きな病気が見つかってね、手術を受けなければならなくなってしまったの。大きな手術でね、お金もたくさん必要で、主人にもそれは用意できないほどの大金だった。でもね、そんなある時、彼が大金を持ってきてくれたの。彼にどのように工面したのか聞いたけれど、答えてはくれなかったわ。」
わたしは音を立てないように皿を拭く手を動かし始めた。話しているサザンカさんはわたしに見つめられていると話しにくいのではないかと思ったからだ。
「主人はそのお金について何も聞かなかった。わたしが別の男性と会っていた事をきっと分かっていたのね。わたしはそのお金で手術を受けて、退院することができたし、昔より幾分健康になったわ。」
サザンカさんはカップに入った紅茶を飲み終えて、静かにまたソーサーに戻したが、カップに絡めた指は解かなかった。
「そしてわたしは主人と別れて彼と一緒になろうと心に決めたの。馬鹿な考えだったわ。誰も幸せになんてなることができないのに、その時のわたしはいてもたってもいられなかったの。」
彼女は話し疲れたのか肩を少し落としていた。それでも話はやめなかった。
「こんな寒い雨の日だった。わたしは彼の奥さんと話をしようと彼の奥さんの元を訪れたの。」
サザンカさんは窓の外に顔を向け雨を眺めているように見えたが、その目には他のものがうつっているとわたしは感じた。
「でもね、玄関先で孫であろう子供と遊んでいる彼女はね、山茶花のように美しい人だった。わたしは傘をさしながら遠目からじっと見ていたわ。彼女は明るく笑い、華やかで強く根を張っているような女性に見えたの。わたしは黙ってその場を後にしたの。雨の中家に帰ってね、鏡を見たのよ。鏡の中にうつるわたしの顔は青白くて、地味な顔をして、弱々しいように見えたわ。わたしは彼女のように強く彼を支える事は出来ないと思った。山茶花の花にはなれないと。わたしは彼女がすごく羨ましかったけれど、その時はとても心地よい気分だったの。だって好きな人の好きなものはどうしたって好きになってしまうものだもの。」
わたしは紅茶をもう一杯淹れて、サザンカさんの前に置いた。彼女は少し驚いたような顔を見せたが、空になったカップから温かい紅茶の入った新しいカップに手をかけ変えた。
「サービスですよ。」
わたしは微笑みながら言ったが、少し不自然な顔をしていたかもしれない。彼女は恥ずかしそうに笑いながら一瞬だけ俯いた。
「わたしは彼にもう会わないと別れを告げたわ。お金は必ず工面して送りますからと言って。でも彼はそれを受け取らないと言ったの。俺が俺のために使った俺の金だからって言ってね。」
先程強めただるまストーブの火は、店内を春のように温かくしていた。その温かさがサザンカさんを少しでも温めるようにと願った。
「それから彼とは一度も会っていないの。元気にやっているといいのだけれど。もう八十二才になるかしらね。」
サザンカさんは新しく淹れた紅茶に口をつけた。紅茶はまだ湯気を立てていて、カップの底を薄っすらと透かしていた。
「わたしも年をとったわ。もうすぐ、少し前に亡くなった主人の元に行けると思うのよ。わたしの今の一番の楽しみは主人と同じお墓に入るということ。でもね、山茶花の花を見るたびに思い出すの。一番愛した人と愛した人が愛したもののことを。」
わたしは皿を拭く手を止めて蓄音機のスイッチを入れ、レコードに針を落とした。

サザンカさんはしばらくの間、紅茶を飲みながらぼんやりとわたしの動く姿を眺めていた。
「雨が止みましたね。」
わたしが窓の外を眺めながら差し込んだ日の光が揺れている先を指差すと、彼女もゆっくりとその光を見た。今度はちゃんと、その先を見ているようだった。
「あら、ほんと。」
サザンカさんはまだ半分ほど紅茶を残して立ち上がった。
「ありがとう。いい時間だったわ。あら、」
机の上を見たサザンカさんはほんの少し驚いた顔を見せていた。そこにはミギオレが帰ってから片付け忘れていた灰皿があった。
「その人もね、煙草の吸殻を灰皿に立てかける癖があったのよ。懐かしいわ。」
サザンカさんはいつもの微笑みを浮かべながら、またねと言って出て行った。

だれもいなくなった温かな店内にはジャズが流れていた。蓄音機は時折鈍い奇妙な音を立てていた。

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