『車輪の下』 感想

3年前くらいに名作だからと、買ったはいいけどずっと本棚に眠っていたのを、暇になったので読んでみました。
前振りに、小説を読む時の感覚について少し書きたいと思います。その前振りは要するに、今回の感想は自分が感じ入ったところを単調に上げていくだけですよ、という言い訳ですがお付き合いいただければ幸いです。

これはごくごく、個人的な感覚だし、一概にはそういえないと思うのだが、映画や漫画は視覚的に受け取っているのに対して、小説は触覚的に受け取っている感覚がある。
あるものを目で見るとその全体像がすぐにわかるけれど、目をつぶって手で触って確かめるとその全体像が全く見えてこない、というのが視覚的と触覚的の違いだ。
触覚的に作品を受け取ると、全体像を把握してあの伏線がどう、とか作品全体はこう、みたいなことは言えない。だが比較的呑気に、うっとりと、言葉の1つ1つを楽しむことはできる。
わかりやすく言うと、鑑賞後の感想がストーリーに絡んで思い出されるのが映画や漫画で、その瞬間瞬間の感情だけが思い出されるのが小説だ。

そんなわけで『車輪の上』の感想は単にわたしが感じ入った言葉やシーンを上げていくだけにします。
つまり、子供時代をのびのびと過ごさず、がりがりと勉強して過ごした少年が、悲惨な末路を辿るというストーリーに込められたメッセージは無視してしまいます。すみません。

一番好きだったのは寄宿舎時代のフェーズだ。なんとなく、萩尾望都とかを思い出しながら読んだ。
田舎にいる頃の自尊心と不安とにぐらぐらと揺れるハンスも好きだけれど、ハイルナーに翻弄される不安定感なハンスはもっと好きだし、学校全体に蔓延するぐったりとした雰囲気も好きだ。
不良になっていくハンスと共に、学校の中で不良になるこどもたちについての記述があってそれがとてもいい。

天才的な人間が学校で示すことは、教授たちにとっては由来禁物である。教授たちにとっては、天才というものは、教授を尊敬せず、十四の年にタバコをすいはじめ、十五で恋をし、十六で酒房に行き、禁制の本を読み、大胆な作文を書き、先生たちをときおり嘲笑的に見つめ、日誌の中で先導者と監禁候補者をつとめる不逞の輩である。(中略)ほかならぬ学校の先生に憎まれたもの、たびたび罰せられたもの、脱走したもの、追い出されたものが、のちにわれわれの国民の宝を富ますものとなるのである。しかし、内心の反抗のうちにみずからをすりへらして、破滅するものも少なくない

若さと天才性が生む危うさ(天才自身が教師に傷つけられることと、天才が周囲をかき乱すことの両方)がきっちり書かれていて良い。
一匹狼で学校内ではルール違反とされていることを涼しげにこなす人に一目置く、みたいな天才性への共感もある。『溺れるナイフ』とかを思い出す。

青年になった彼が田舎に帰ってきたあとは、ひたすらに切ない。エンマへの恋はその切なさをより厳しいものにする。
ハンスの手にエンマのスカートが売れたり触れなかったりするときに

しかし彼女のスカートが手をさわるごとに、彼の心臓はわくわくする喜びに詰り、快く甘い貧血に襲われて、ひざは少し震え、頭の中は目まいがしそうにそうぞうしく鳴った。

という風にあまりにも心を高ぶらせるハンスに胸が痛む。
エンマが去った後に打ちひしがれる彼は悪夢を見る。

鼓動と胸苦しさに眠られなかったり、おしつけるように恐ろしい夢に落ち込む夜な夜な。夢の中では血が怪しく沸き立って、とほうもなく大きい恐ろしい怪物になったり、抱きしめて殺そうとする腕になったり、目のらんらんと光る怪獣になったり、目のくらむような深淵になったり、燃え上がる大きな目になったりした。さめると、ひとりぼっち冷たい秋の夜の孤独に囲まれている自分を見いだして、愛する娘にこがれ、もだえ、泣きぬれた枕にうめきながら顔を押しつけた。

夢の中であまりにも燃え上がる恋心と、その具体化が目や、抱きしめて殺そうとする腕、であることに切実さを感じ、覚めた瞬間の孤独があまりにひしひしと感じられて悲しい。

こんな風に、1つ1つの文が細やかに美しく、さわやかな自然の描写に没入したり、心理描写に悶えたりした小説だった。

#ヘッセ #車輪の下 #感想 #小説 #エッセイ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?