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フラヌールの陶酔について【#002】

フラヌールは陶酔する人間です。
この陶酔について考えたいと思います。

陶酔とは、自分の行動や容姿などにうっとりして酔いしれることです。
多くの場合、自分が他者を優越していると感じた時に人は自己に陶酔します。
しかしフラヌールは他者に優越することは考えてないように思えます。
むしろ群衆の中の名前のないただ一人であることを自ら求めています。

では、なぜフラヌールは遊歩をする中で自己陶酔をするのでしょうか。
この矛盾について、役割からの逃避という観点から考えようと思います。

僕たちは社会的な生き物である以上、周囲の人から何かしらの期待を常に受けています。
例えば「営業ノルマを達成してほしい」や「年に一度は帰ってきてほしい」とか「朝出かける前にはキスをしてほしい」などなど。
期待は肯定的なものだけでなく、否定的なニュアンスを含んだものもあります。
例えば、プロ野球の試合の中継を見ている時。
ひいきのチームが逆転のチャンスの場面で、相手チームにエラーを期待することがあります。
また期待には、その起点(期待する人)と対象(期待される人)が明確でなく間接的で曖昧なものもあります。
マナーやエチケット、空気を読むことなどは起点があいまいですが、僕たちはその期待を確かに感じとり応えようとします。
もちろん他者からの期待を受けるように、自分自身も他者にそして社会に期待をしています。
このように社会には見えない期待の線が複雑に交差しています。

周囲から求められる期待を、「役割」という言葉を使って表現することがあります。
例えば親としての役割、恋人としての役割、社会人としての役割など。
ある役割にいるならば、その役割が行うべき期待というのをある程度わかることができます。
そのため役割の便利な点に、自分の役割を知れば自分が応えるべき期待がある程度わかることです。

僕たちは社会の中で何かしらの役割を持ち、その役割を果たすことを求められています。
しかし役割は少しばかり矛盾を含みます。

哲学者ジャン=ポール・サルトルはこう言います。

「その学生は聞くふりに忙殺されるあまり、ついに聞くことができなかった」

役割には内容への期待(授業を聞いて理解すること)と、外見上の期待(授業をきとんとした態度で聞くこと)の二つの側面があります。
多くの場合、役割の二つの側面のどちらにも応えることを求められます。
しかし、一方を満たすためには一方を犠牲にしなくてはいけないこと場面は少なくありません。

役割が抱えるもう一つの矛盾に、どの視点から見るかによって期待されることが変わることがあります。
例えば、戦争では兵士の役割は相手国の兵士を殺すことです。
しかし、相手の兵士には自分と同じにように家族がいて、自分と同じように生きて帰って欲しいと思っているはずです。
それに人を殺すことは道徳倫理から見ても、良くないことです。
多くの宗教は人を殺すことを禁じています。
しかし、兵士の役割は相手兵を殺すことです。

今の日本では、幸運にも戦争は身近な話ではないので別の例を出しましょう。
現在の資本主義社会では利益を出してより多くの資本を得るために、大量の商品が生産され大量の消費を促しています。
しかし、服も食べ物も娯楽品も本来ならばこんなに必要ありません。
余ったものはゴミとなり、環境に悪影響を与えることもあります。
しかしいち会社員の役割は会社の利益を上げることであり、環境の問題は二の次のことになります。

このように役割は人と人を結びつけるものではありますが、しばしば矛盾を抱えます。
それでも人は覚悟を決めたり、折り合いをつけたり、見ないふりをすることで自らの目の前の役割を果たすことに集中します。

さて、フラヌールについて話を戻します。
彼らは群衆の中の無名の人間であろうとし、誰からも注目されることのない存在です。
彼らに役割はありませんし、むしろ彼らは求めて役割から逃れているように思えます。
それは、役割の持つ矛盾を咀嚼し飲み込むことができないからかもしれません。

しかし、同時に彼らは強く自己を意識しています。
群衆の中にいながらも、誰からも発見されることのない自己の存在を見つめます。
役割のない彼らは、自己の存在意義を他者から付与されません。

誰からも必要とされないならば、はたして自らが存在する意義はないのでしょうか。

それでも自己は確かにこの群衆の中に存在し、自らの目を通した世界の中心に自己が存在していることを強く感じます。
フラヌールは役割がなく誰からも必要とされない状況の中に、自らの存在の意義を見つけます。
この存在意義は他者から与えられるものではないため、彼らの中で強力で揺らぐことのない意味を持ちます。

強力な存在意義。

そして、彼らは陶酔します。
群衆の中に身を隠しながらも、世界の中心に存在する自己に対して。

あるいは彼らは自らの存在の矛盾に苦悩し、強力な存在意義を見つけるために役割からの逃避をするのかもしれません。

アートボード 10@3x-100

Var 1.0

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