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銀と金  −前編

竜の仔の物語 −序夜異譚−


 ルグは、はじまりを思い出そうとしていた。いつからここに居るのか。どうしてここに居るのか。少しだけこの場所に嫌気がさしてくる時には決まって、はじまりを思い出そうとした。

 特に今夜のような蒸し暑い夜。格子窓から湿気った南風が吹き、牢の四隅に積った糞尿の臭いをかき混ぜる時などは、ここに来たはじまりを、彼は必死に思い出そうとするのだった。

 自分の名が『ルグ』だということだけは知っていた。この塔の主のアイカレがそう呼ぶからというだけではなく、全てが朧げで曖昧な記憶のなかで、そう呼ばれていたことだけは、なぜだかはっきりとわかった。

 臭いは耐え難かったが、それよりも動くことが億劫で仕方がなかった。昼間にずいぶん血を抜かれたので、身体が重たく、指先を動かすのでさえ面倒だった。

 それでも、牢の真ん中で頬をべったりとつけて、うずくまっているのは心地よくもあった。そこが自分のお気に入りの場所であることに変わりはなかったし、石の床はいつでもひんやりと、冷たかったからだ。


 外で生き物の気配がした。ルグは重たい身体を起こして、格子窓から顔をだした。別に見たいという訳でもなかったが、そうすることが彼の習慣になっていた。

 大人が二人、それから、自分と同じくらいの背丈の子どもが数十人ほど、列に並べられていた。大人の一人はアイカレだということがわかった。かなり遠くからでもその輪郭がルグには見えた。

 ルグは親指の爪で壁に傷をつけた。傷を数えると九つあった。はじめに付けた傷が青梟の時期くらいだったから、今は赤燕くらいだろうか。彼はそんなことを考えてみて、すぐに考えるのを止めた。いつから数えて、何のためにそうしていたのかが、思い出せなかったからだ。

 頭がぼんやりとした。思考が上手くまとまらなかった。それがアイカレのくれる紫色の薬のせいだということを彼は知っていたのだが、その薬が必要だということも分かっていたので、仕方の無いことだった。



 目がさめると牢の扉が開いていた。それは珍しいことでもなかった。ルグは牢を出て、塔の石段を上がった。

 塔の天辺の薄暗い部屋にアイカレが座っていた。左側が肩から深くえぐれていて無いので、背の高い男は落雷で朽ちた枯れ木によく似ていた。テーブルの上には沢山の食べ物が積まれていた。アイカレに促されて向かいの席に座ると、ルグはそれをじっと見つめた。空腹で喉の奥がひくひくと動くのがわかった。

 「さあ。食べろ」その声に素早く反応して、ルグはテーブルの上の食物に手をつけた。

 「わたしの特別な子よ」アイカレはルグのことをたまにそう呼んだ。「沢山食べてまた血を増やすんだ。」それから今日の分の薬を差し出した。

 ルグはそれを黒パンと一緒に飲み込んだ。すぐに身体の気だるさが吹き飛んでいくのがわかった。「忌々しい捨て犬め」アイカレは時々、そうも呼んだ。いつも薬を与えられた直後には、どれが自分の名前かを忘れそうになるのだが、しばらくすると彼は自分の名が『ルグ』だということを思い出すのだった。

 「また新たな子どもたちが来た」アイカレはそう言うと、残った右手でクロモジの杖を取り、何やら訳の分からない言葉を呟いた。ルグはいつでも食べることに集中しているので、その痩せこけてひょろ長い人間が、何を話しているのかだなんて、気にしたことは一度も無かった。

 食事が済むと、アイカレはルグを塔の外に連れ出した。強い陽光に目の奥が痛んだ。

 「さあ、ここで陽の光に当っていろ。あまり遠くへ行くんじゃないぞ」ルグが見上げると、そう言うアイカレは深々とフードを被っていた。久しぶりに見たその顔は、左の頬にひびのようなものが入っていた。子どもがそれを見つめていることに気がついたアイカレは、直ぐに顔を背け、去っていった。

 自由に歩き回ることが出来たが、光が眩しすぎるので、ルグはいつものように塔のそばの木陰に座り、時が過ぎるのを待った。薬のせいで景色が弾けてよく見えなかった。少し遠くにいるアイカレと大人たちの服の色が溶け合って、混ざって見えた。彼らは、昨夜と同じように、子どもたちを一列に並ばせていた。



 アイカレの手下たちは、奴隷として買い上げた子どもたちを一列に並ばせ、よそ見をする子どもを殴り飛ばす。それから大人二人掛かりで青白く光る小さな石を持ってくると、主の前に置く。

 アイカレは先ほどの殴られた子どもの許へ行き、杖を鈍く光らせながら顎をしゃくり、子どもの表情を見つめ、石を指差す。

 「さあ、あの石を持ち上げてみろ」

 子どもは石の前でしゃがみ込み、言われた通りにして見せる。

 「いい子だ」アイカレは無表情でそう言い、次の子どもにも同じことをやらせる。

 そうして全ての子どもに石を持ち上げさせる。どういうわけか子どもの中には三人ほど、そ
の掌に収まるほどの小さな石を持ち上げられない者がいる。「ふん、こんなちっぽけなものを持ち上げられないとはな」アイカレは鼻を鳴らし、つまらなそうに吐き捨てる。

 それから石を持ちあげた子どもの一人を選別し、塔の中に引き上げていく。他の子どもは手下たちに連れられ、何処かへ行ってしまう。

 ルグはいつもならば、アイカレと一緒に塔へと引き上げるのだが、今日はそのまま木陰に座り続けていた。そうしなければならないような気がしたからだ。

 しばらくすると大人たちの許へ行商人がやってきた。真っ黒い髭面の、頭の禿げ上がった大きな男だ。巻き煙草売りのその男をルグは知っているような気がした。男は塔の大人たちに、巻き煙草をやその他の珍しい商品を売りつけていた。

 行商人が去ると大人たちは散りじりになった。塔の内部に戻る者や、溶鉱炉の警備に戻る者、それぞれの持ち場に戻り、ルグはだけがまんじりともせずに座り続ける。

 ほどなくすると背後から声が聞こえる。ルグは振り向かずにその声に耳をそばだてる。そうしなければならないような気がしたからだ。

 「…遅くなりました。時間がない…さ、早くこれを」

 木陰の下からごつごつした指が何かを差し出した。小瓶に入った何かの液体だ。ルグは不思議そうにそれを眺め、男のほうを振り向いた。先ほどの行商人だった。

 「いつもの気付け薬です。どこかに隠し、頭がぼんやりしたら使うのです」

 しかしルグにはその意味がまったく分からずにいる。

 「…やはり、また、覚えてませんか」それを察したのか、男はそう呟き、「さあ、ともかくこれを」ルグの手のひらを強引に引き寄せ、瓶をきつく握らせる。

 そうして、男は急いで森の方へ去っていく。

 それからルグは塔へ戻り、自分の牢屋へと自ら入り込む。しばらく待つと手下の男が牢に鍵を掛け、去っていく。

 ルグはお気に入りの場所でいつものようにうずくまって眠ろうとしたが、何かを思い立ち、牢の隅に這いつくばっていく。糞尿をかき分けると、彼は床に爪を立て、石の塊を剥がす。そこには小さな空間があり、いくつかの同じ形の小瓶が隠されている。

 ルグは不思議に思いながらも、そこに、男からもらった新たな小瓶を収めると、お気に入りの場所に戻り、眠りに就くのであった。



 その夜、アイカレはひとりの子どもを連れて、研究室の鍵を開ける。部屋に入ると、慣れた手つきで杖を奇妙な装置に取り付ける。子どもは山積みの書物や見たことも無い器具に目を奪われている。アイカレはそんな子どもの頭を撫で、銀の寝台に寝転ぶように言いつける。

 「さあ、選ばれた子よ」特別な形状をしたランタンに火を入れると、赤いの液体の入ったガラス瓶を熱しはじめる。

 「お前は強くなるのだ」作業を続けながら、子どもに話しかける。

 「おれは、お前を解放してやるためにここへ連れてきたのだ」彼は振り返り、手に持つ青白い粉を見せる。

 「これはマリクリアの粉末だ。昼間にお前が持ちあげた石と同じ物だ」

 子どもはアイカレの話に黙って頷く。

 「これには強い魔法がかかっている。それをお前の中に取り入れさえすれば…」ガラス瓶にその粉末を入れると、特殊な針のついた器具で液体を吸い上げる。「お前は、誰にも負けない強さを手に入れるだろう」

 「もう誰も殴らない?」子どもはアイカレが持つ針に怯え起き上がり、自らを安心させるようにそう訊ねる。

 アイカレは寝台に近づき、静かに頷く。

 「母ちゃんの所に帰れる?」

 「…それはできん。お前はおれに仕えるのだ。このベラゴアルド一の魔法使い、アイカレにな」そう言い、魔法使いは子どもに軽い催眠魔法を施す。

 「さあ、おしゃべりはもう終わりだ」手をかざし、何やら呟くと、子どもはすぐに眠りに落ちる。

 それからアイカレは、子どもの腕のを取り、血管を浮き出させると、その細い腕に針を差し込む。装置の管から赤い液体が注入されていくのを見届けると、羊皮紙に何やら書き付け、研究室を後にする。



 それから幾日か過ぎる。ルグは目覚めるとアイカレの部屋に行き、食事をする。差し出された紫色の薬を飲み、牢に戻る。彼はアイカレの様子が以前とは違っているのに気がつく。日に日に苛立ち、ぶつぶつといつも何かを呟いている。顔立ちもはじめに出会った頃よりもずいぶん醜くなっているような気もする。皮膚はひび割れ、眼も鼻もすこし垂れ下がっていることに気がつくが、ルグにはすべてがどうでもいい。

 ある日、手下の男に外に出される。彼はいつもの木陰に座り、そこで陽が落ちるのを待つ。陽の光が眩しくてとても眼を開けていられない。何かをしなくてはいけない気もするが、思考の片隅にぼやけた誰かの輪郭が浮かんでは飛び散り、すぐに忘れてしまう。

 牢に戻ると様子が違っている。石の床には一面に藁が敷かれている。牢の手前に誰かが立っていることに気がつくが、ルグは構わずに牢に入る。しばらくその人間は黙っていたが、ルグに話をする意思のないことがわかると、自分から話し掛けてくる。

 「…あの、今日からお世話をさせてもらうことになりました」

 ルグは少しだけむっとする。お気に入りの場所が藁でいっぱいになっている。彼はその周りをうろうろ歩いてみて、結局、同じ場所に座り込む。

 「あたし…ミルマと言います…」

 ルグは何も言わずにうずくまる。敷かれた藁は思ったほど悪くない。むしろ石の床よりも、はるかに心地良いようにも感じる。牢の外に首を向けるが、先ほどの人間はもう居なくなっている。しかし彼は気にせずに眠りにつく。

 「…ほう、少しはましになったではないか」

 朝、目覚めると、アイカレが立っている。

 「手下どもから、臭くてたまらんという苦情があってな…」

 ルグはなにも答えない。

 「お前は臭くはなかったのか?自分の糞尿まみれで」歪んだ口角がさらに曲がる。ルグが檻を出ようとすると、アイカレは杖で遮る。

 「今日から食事はなしだ。血はもう充分快復しただろう?」蛇のような眼を向ける。

 ルグは遮る杖をしばらく凝視した後、アイカレの顔をじっと見つめる。

 「なんだ?その目つきは」子どもがあまりにも長い間自分を見つめるので、アイカレは苛立ってくる。杖を振り上げ、そおの頬を打つ。

 しかしルグは動じない。逆に、アイカレのほうが彼の銀色の瞳に気圧されていく。

 「…・まあ良い。明日からまた研究を手伝ってもらうぞ」吐き捨てるように言い、踵を返す。しかし、そこでアイカレは何かを感じ、素早く振り向く。ルグの向こう側、鉄格子のを眺める。四角く切り取られた晴れ間には、一羽の鷹が輪を描くのが見える。彼はそれをしばらく睨め付けると、急にぶるりと身震いして、それからもう一度ルグを一瞥する。

「この、汚らしい負け犬めが」去り際に、意味もなくそう呟く。



 ミルマは数日おきにやってくる。牢に敷かれた藁の汚れた箇所を取り替え、銀の器に水を汲んできて、入り口のそばに置いていく。世話をする合間に、時々なにやら話しをはじめるが、ルグはほとんど聞いてはいない。水にもひと口も手をつけない。ミルマの声が他の大人たちよりも高くて、頭に響くので、少しだけ不愉快な気持ちにさえなる。

 ある日、彼はミルマをはじめて気に留める。何が切っ掛けなのかはわからない。ただ、藁を敷き詰めるその後ろ姿に、ルグは自分との違いを感じる。

 見つめられていることに気がついたミルマは作業を止め、二人は見つめ合う。彼女はルグのあまりに美しい銀色の瞳に思わず見とれてしまう。

 「…高い、」ルグが口を利く。はじめて声を聞いたミルマは目を丸くする。

 「高い?」彼女が復唱すると、ルグが頷く。

 「高い、…ええと、少し高いかな?」彼女は自分の頭を触り、それからルグの額のあたりを触れようとするが、それを拒まれ、反射的に手を引っ込める。

 「…ごめんなさい」ルグはそれでもミルマを見つめ続ける。それから「高い」もう一度言う。

 ミルマは首をかしげる。

 その高い声が最初は煩かったのだが、今は少しだけ心地が良い。ルグはそう伝えたいのだが、言葉が出てこない。頭がぼんやりとして、今考えていたことも、すぐに忘れてしまう。

 「声、高い」ようやく言葉を絞り出すことができる。

 「ああ、声、あたしが?」ミルマは自分を指差し、…そんなに声高いかなぁ、そう呟く。

 「なぜ?」ルグは立ち上がり、もう一度、口を利く。

 「なぜ?」…ええと、ミルマは首をひねる。「…なぜって、あたしが女だからかなぁ?」なんてね。彼女は笑いながら舌を出す。

 ルグがさらに近づく。間近に迫った不思議な男の子に、ミルマは少しだけ恐怖を感じるが、その銀色の瞳をみていると、なぜだか気持ちが落ち着いてくる。よく見ると脂と埃で汚れ固まり、束になった髪の毛も、同じ銀色だということに気がつく。

 「高い。背も、高い」ルグが上目遣いで彼女の頭頂部を見上げる。つま先立ちに背を伸ばし、その亜麻色の髪の臭いを嗅ぐ。

 「ふふふ、そうね。わたしのほうが少しだけお姉さんなのかもね」くすぐったそうにミルマは笑いかける。

 「女だから、高い?」ルグがそう訊くと、彼女はさらに笑いながら違うと言う。

 「わたしはミルマ。前にも言ったかも知れないけれど、憶えてないよね。」彼女はかみ砕くようにゆっくりと喋る。ルグはその声を心地良く感じる。前のようにひとりで呟いていた時よりも、ずっと聞き取りやすい。

 ミルマ。ルグは頭の中で何度も繰り返し、その名を覚えようとする。

 「ねえ、あなたの名前は?」ミルマが笑顔を絶やさずに訊る。

 ルグは考える。特別な子、忌々しい捨て犬、汚らしい負け犬、アイカレが呼んだ様々な名前を思い浮かべるが、頭の中でその名を反復してみると、どれも自分の名前ではないことがわかる。

 「…ルグ。」彼は静かに答える。

 「ルグ!とっても良い名前ね!」

 ミルマは少しだけ大声を出してそう言うと、ルグの手を握り、満面の笑みを浮かべる。

 それからあたりを見渡すと、「いけない」寂しそうに呟き。「もういかなきゃ」それだけを言い、足早に去っていく。


−中編へ続く



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