舞台「大悲」を観に行った

先日、下記の舞台を観に行った。

私が観たのは「story B 37m」の方。

私には個人的にとても好きな俳優がいて(世間一般では「推し」と言うのかもしれない)、彼がこの舞台に出演すると聞き、作品について調べた時、正直なところ、今回観劇するのはやめておこうかなと思った。

2001年6月8日、午前10時過ぎ。
白昼の小学校に一人の男が乗り込み、児童8名を刺殺。
15人の児童・教師に重軽傷を負わせる、
日本犯罪史上に類を見ない無差別殺傷事件が発生した──

公式サイトのあらすじ紹介を読めば一瞬で分かる。この作品は2001年6月8日、まさにその日に発生した「附属池田小事件」をベースにしている、と。

(参考がwikipediaで申し訳ないけれど、わかりやすいので。)

これは、私がまさに小学生だった当時に起きた事件だ。私はまだ十歳にも満たなかったけれど、報道をとてもよく覚えている。
被害者の年齢が私とほとんど変わらない年齢だったせいか、ニュースを見た母は、私を小学校へ送るのさえ怖がっていた。通っていた小学校は、周囲はほとんど水田、全校生徒もせいぜい百人足らずの小さな学校だったのだが、それでも事件直後は先生や保護者、他にも地域の大人たちがとてもピリピリしていた。
登下校時の見回りは増えたし、痩せた野犬ぐらいしか迷い込んでこない校庭も、門がなくともロープが張られるようになった。
辺鄙な田舎でもそんな策を講じるほど、この事件はショッキングだったのだ。

二十年近くが立っても、まだあの日の衝撃は、私の中では薄れていなかった。
だから、この事件を、舞台、すなわちフィクションである「物語」に変換して消費してしまうのは、早すぎるのではないか、すべきではないことなのではないかと思っていた。

先に書いた俳優は、まだデビューしてからそう月日は経っていない。デビュー作品で好きになったたということもあって、彼が出演する作品はほぼ全て観ている。キャスト先行だのファンクラブ先行だの、とりあえず情報が出たらチケットを申し込む!というルーティーンを、私は慣れないながらも得たばかりだ。
けれど今回は、チケットの抽選申込を何度も何度も見送ってしまった。
今まで彼の舞台はずっと観てきたのに、ここで途切れてしまうのか……とも悩んだ。

私の意識が変わったのは、こちらの記事を読んでからだ(7pに脚本・演出家のインタビューが掲載されている)。

おそらく、私はずっと製作者の意図や、姿勢について疑っていたんだと思う。
事件をまさに物語として消費する下手なお涙頂戴や、事件に対するスタンスが、私にとって「間違っている」と思うような舞台であったら、多分絶対に許せないだろう、と。
上記の記事を読んで感じたのは、製作者の事件に対する真摯な姿勢や、舞台への強い意気込みだった。合わせて、前述の俳優のtwitterや配信番組を見て、彼の役への考えを聞いて、ようやく、これだけ真面目な人々が、本気で取り組んでいる作品なのであれば……観に行ってみようかな、と思えるようになったのだ。

そして、結果として、「観に行ってよかった」と素直に思っている。
行ってよかった。心の底から。
だから、こうして日記を書いている。観た時の感情を残しておきたくて。

「Story B 37m」の内容は、公式サイトによると以下のとおり。

[ story B 大悲 37m ]
清水結衣は、幼い娘・明日香を事件で喪う。
関係の冷めいった夫・謙介ともすれ違い、孤立する結衣。
一方、結衣の長男・秀斗は、犯人への強い怒りを抱え、復讐の念をたぎらせる。
最愛の娘を亡くし、深い絶望の底に落ちていた結衣はある日、事件現場であるものを目にする。
そして、悲しみと罪とを負いながら、懸命に、事件と向かい合うことを決める…。

本音を言えば、見ている間はとても苦しかった。普段であれば、どれほど話の内容が辛くとも、「これはフィクションだから」「物語だから」と冷静になれるのに、今回は実際の事件を題材にしている分、「これは本当にあった出来事なんだ」「本当にこんな思いをした方々いるんだ」と考えれば、いよいよやるせなさがどうしようもなくて、感情の逃げ場が見つからず、とても苦しかった。
月並みな言葉だけれど、役者の演技が誰も彼も皆真に迫っているように感じて、より一層リアリティを感じられたのも大きかったのだろう。
壮一帆の低めの声が、娘を失った母親の声そのもののように聞こえた。
正木郁が慟哭する姿には(俳優に対する思い入れもあるのだろうけれど)、胸の奥から熱いものがこみ上げて、私も劇場で声を上げて泣きたくなった。
観終わった後、耳が熱かった。頭にかなりの血が上っていたと思う。


作中、村上幸平が演じるかつて子供を事件で失った父親が穏やかに語る。「これからは世間の被害者に対する目とも戦わなくてはいけない」「『被害者』は笑うことすら許されない」「何をしても、『不謹慎だ』と言われてしまう」と。
直接責められているわけでもないのに、私は後ろめたさを感じた。

何か、大きな事件が起こるたび、マスコミ等が加害者や被害者のことを好き勝手に書き連ねてしまうのは、それを観ている視聴者・事件の外側にいる人々が、事件を「自分とは関係のないことだ」と思い込みたいからではないか。
被害者にしろ加害者にしろ、自分と地続きではない、どこか別の世界の出来事だ、私には関係ない。そう思いたい、そう思って安心したいから、報道が過熱してしまうのでは、と思う。
「外側の人々」には、きっと私自身も含まれている。

でも実際は、「別の世界」なんてことはない。
いつだって、こちらではない向こう側の人々のうちの誰かが傷つけ、傷つけられるのではない。「私たち」の中の誰かが傷つけ、傷つけられているのだ。

私が被害者になる可能性もある。遺族になる可能性もある。ある日突然、誰かに、私の命を、もしくは大切な人を、理不尽に奪われる可能性は、ゼロだとは絶対に言えない。

池田小の事件でも、その他の重大な事件でも、加害者のこれまでの人生は詳細に報道されてきた。精神の病を持っていたとか、家庭に問題があったとか、長い間部屋に閉じこもっていただとか。
確かに彼らの人生は特異なものかもしれない。だけれども、振り返ってみれば、私の人生においても似た部分が全くなかったとは言い切れないのだ。
家族とは不仲ではないけれど、どうしても許せないことはある。今感じている生きづらさが、両親のせいだと喚きたくなるときもある。自分に非がないことで上司に叱責されると、暴力的な衝動に駆られることだってある。
彼らと私を分けるものは何だろう。家庭環境?  本人の資質?  私はそうは絶対にならない、確信を持って言えるのだろうか?
一歩違えば、私が加害者側になる可能性だってあったのかもしれない。

被害者にも、もしかしたら加害者にも、なり得ること。
私はこの舞台を観て、それを真正面から感じ取った。
もしかすると製作側の本来の意図とは異なっているかもしれないが、これが私の感想なのだ。

舞台を観終わった後、家に帰る途中ずっと考えていて、私は、今私が毎日を誰に(私自身にも)侵されることなく平穏に過ごしていられることが、本当に幸せなことだなと思った。
私には特別に信じる宗教はないから、その幸せを何かに、例えば神様とかそういう存在に、感謝することはない。けれども、この日々を有り難く思い、大事にしなければならない、と思った。

そしてこの幸せが、他の全ての人にもあって欲しいとも思っている。そのためには、私に何ができるのか、考え続けなければならない。何もできないかもしれないけれど、ずっと考えていくだろう。

この舞台は、私が懸念していた「消費」されてしまうような物語ではなく、観た者の心の中に深く根付いて、ずっと共に存在し続けるような作品だった。
観に行ってよかった。本心からそう思っている。観なければ、こんな風に深く考えることもきっとなかったから。


加害者側について深く考えるためにも、ぜひ「Story A 31mm」も観劇したかったのだが、どうしても時間が取れなかった。幸いDVDが発売されるとのことなので、続報を楽しみに、とは到底言えないけれど、粛々と待っている。


私が小説を読んだり、映画や舞台を観に行ったりするのは、学生の頃ならいざ知らず、大人になった今やほとんど娯楽のためだ。辛い毎日の慰めに、毎日を生きていくため楽しみとして、私は好きなものだけを選んで観る。娯楽に対してわざわざ辛い思いをする必要はないはずで、それを他者に否定される謂れもない。
そういうモットーで生きているはずの私が、悩みながらもこの舞台を観に行ったのは、結局、「好きな俳優が出演しているから」という理由が最も大きい。
彼が出演していなければ、絶対に観に行かなかった。そもそも存在すら知らなかっただろう。
それを考えると、役者という存在は、とてつもなく大きいなあ、としみじみ思っている。

私が彼を好きなのは、彼を追いかけることで、いつも新しい世界に出会えて、それがとても楽しいからだ。今回も、こうして自分に深く考える機会を与えてくれて、彼には感謝している。


長い日記になってしまった。
最後に、癒しの動画を載せておく。

ドーナツ食べたいね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?