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令和三年四月―五月 石川の旅(三)

 モテル北陸を後にした私は、再度歩いて動橋駅へと戻り、加賀温泉駅で降りた。ここは加賀温泉郷の玄関口であるのだが、意外にも大勢の高校生たちが電車に乗り合わせており、私と共に大勢がこの駅で降りて行った。この辺りは住宅街も多いようだったが、観光客よりも高校生たちを大勢見るとなると、何か不思議な心持にさせられる。
 昼飯を摂らぬままに丘を登ったり下りたりしたので、私は非常に空腹を覚えていた。駅前の南口にアル・プラザ加賀というショッピングモールがあったので、そこへ入ってマクドナルドでハンバーガーを食べた。ようやく人心地がついたので、今後は反対の北口へ向った。さほど遠くないところに、加賀観音があるのである。
 地下道を抜けて地上を出ると、観音像はすぐに姿を現した。金色の巨体が、少し傾き始めた日光を浴びて輝いている。私は坂を登り、そのすぐ下まで行ってみた。観音像の隣には「観音温泉ホテル」というネオンの掲げられた建物があるが、これはもう営業していない。近付いてみると扉の一つが開け放されており、廃墟好きの血が騒いだが、現役施設のすぐ隣であるし、さほど荒れた様子もないので近付きはしなかった。
 観音像へ続く階段に、手書きで拝観時間の書かれた看板があったが、見ると午後五時までとなっている。時計を見ると既に五時半である。拝観ができなかったことはやや残念だったが、明るい内に観音像を見られただけでも良かったと考えることにした。


 それにしても観音像というのは不思議なものである。すぐ隣は住宅地になっているのだが、家々の屋根の向うに、赤子を抱いた観音の像が聳え立っているのだ。これも日常と非日常の境界といった感を抱かせ、私の心を摑む光景だった。しばし観音像を見上げてから、その裏手へと向った。
 観音像の裏手は、林と野原になっている。観音の後ろ姿と寺院の建物の巨大な組合せが、曇り空の野原の果てに聳えている光景は実に独特なものであったが、ただ後ろ姿を見に来ただけではない。嘗てこの観音像の裏手には、同じ経営母体の運営する遊園地があったのである。更に言えば先程の観音温泉ホテルもその一部で、加賀観音本体を含めた全体が「ユートピア加賀の郷」というレジャー施設であったのだ。
 さて「ユートピアランド」と名付けられたその遊園地跡の門が、山道の半ばに姿を現したが、既に遊園地の痕跡を示すものは殆どない。一時期は廃墟であったものの、既に十年以上前に、殆どの遊具は撤去されているのである。更に入口附近の建物も、グーグルマップの航空写真を見ると比較的最近まで残存していたようであるが、門の脇の一部を残して跡形もなく解体されていた。錆び付いた門から敷地内を覗き込んだが、産業廃棄物のようなものが散らばっているのみである。


 残された建物の一部は、西洋の城をイメージした、正に「夢の国」に相応しいデザインであったことがわかる。だがそれも今や、蔦の絡み付いた壁一枚しか残っていない。何故ここだけ残ったのかは不明だが、道路のすぐ脇ということで足場を組んで注意した作業を行う手間を惜しんだのだろうか。だが私のような者にとってはこれが残っていただけでも幸いであった。城の塔をイメージしたであろう部分も、折れて斜めに危うげに傾いでいる。滅亡した夢の国、そんな言葉を脳裡に浮ばせながら、私はその場を後にした。(続く


《石川旅行記・記事一覧》
第一回(出発、内灘海岸)
第二回(モテル北陸)
第三回(加賀観音、ユートピアランド跡)
第四回(にし茶屋街、室生犀星記念館、石川四高記念文化交流館)
第五回(石川県西田幾太郎記念哲学館、かほく市の海岸)
第六回(金沢城、兼六園)

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