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沈黙 遠藤少年の足跡を追って

みなさま、いま話題の巨匠スコセッシ監督の映画「沈黙」はもうご覧になったでしょうか?(私は先々週?のレディースデーに覚悟して観ました。。)
ま、その感想はさておき。きょうはわたしが先月、とあるキリスト教系エキュメニカル(エキュメニカルとは‥カトリック、プロテスタントを問わず、キリスト教が教派を超えて、またキリスト教のみならず、より幅広く諸宗教間の対話を目指す‥ような意味)紙の依頼で、神戸辺りに約1週間の取材の旅に行った際、頼まれてないことまでついついやってしまう質(たち)として、どうしても巡ってみたくなった、「沈黙」の作者である遠藤周作が少年時代を過ごした地について紹介したいと思います。

特にキリスト教系メディア?では今、沈黙がブーム。で、沈黙ゆかりの地ということで長崎や五島列島を紹介しているのは一般紙やネット上でもよく見かけます。でも。作家、遠藤周作は、父親の仕事の都合で幼少時代を満州で過ごした後、離婚した母とともに帰国し、多感な少年時代を阪神の地で送りました。12歳のときに、母や叔母の影響で受洗したカトリック夙川教会(表紙の写真の美しい教会です)のある夙川、そして阪急沿線の町、仁川(にがわ)は、まさに遠藤文学の原点といえるにも関わらず、そこに触れている記事はあまり見かけないなあと。。まあどうしても「沈黙」とは直接関係ないので仕方ないかなあと思っていたのですが、わたしが余計なお節介?で書いた記事を、この某キリスト新聞社さんはちゃんと一面を使って掲載してくださいました!!(↓↓その記事)

記事の中でも触れていますが、もともと人一倍繊細な遠藤少年が母や叔母の影響でカトリックの洗礼を受け(させられ?)たことでより複雑な思いを胸のうちに抱え、どんな思いでこの仁川の地で過ごし、大人になっていったかの心の過程は、小説「黄色い人」をはじめ、数々のエッセーの中でも折に触れて書かれています。
そして、これも記事に書きましたが、遠藤が多くを過ごした仁川の家は今ではなんの跡形もなく、ごくごく普通の、写真を撮る気にもならないような(今住まわれている方には失礼ですが。。)家に変わっているのを見たときには、なんとも言えずもったいない気持ちに。。さらにそのすぐ近くに、遠藤がエッセーの中で「今だから白状するが、その頃、ぼくはこの谿川に一人で毎日、しのびこんだものだった。夏草と名もしれぬ草花のおいしげる山と山との闇に聞こえるのは川のせせらぎだけである」と書いている「谿川」が残っているようだったので、そこからはめちゃアドベンンチャーだったのですが、なんとか一人で林に突入!すると、本当に、絶対ここだ!!という谿川があったのにびっくり!!

ほんと、ここはすぐ近くまでゴルフ場開発が迫っているのだけれど(実は立ち入り禁止の線も張られていた‥‥)、まるでそこだけはサンクチュアリのように静かで、一瞬、頭の中がふわっと真っ白に。70年以上前?遠藤少年が確かにここで思索に耽ったと思われる林の中。その水のたまりは驚くほど澄み、静かな静かなせせらぎが確かにサラサラと聞こえてきてしばし感動に耽ってしまいました(動画にも撮った、と思ったんだけど、なぜか消えてしまっている;;)。

そして、そして。

新聞記事の中では触れられなかったのですが、遠藤のエッセーの中には、「夕暮れになると法華寺の鐘がなる。と、それを合図のように。むこうの丘・聖心女子学院の白い建物から夕の祈りの鐘がこれに応ずるのである。少年ながらも、ぼくはこの二つの異なった宗教、東洋の鐘と西欧の鐘のひびきの違いを、なにか不思議なもののように思いながら聞いたものだった」という記述もあります。

今の写真ではわかりにくいけれど、ちょうどここ↑↑がその場所かなあ。写真中央に見える白い塔の先が小林聖心女子学院の鐘のなる塔。で、手前の黒い建物が現在の法華閣です。

家といい、この谿川といい、遠藤がそこにいた形跡は今では全くないのは本当に寂しいところ。遠藤はそれでいいと言うだろうけど、せめて文学碑か何かでもつくってほしいと思ったことでした。遠藤の文学館は長崎の方にあるからこっちには要らないのでしょうが、せめて碑ぐらい、ね?!

 遠藤夫妻の立会いのもと、60代になってからカトリックの洗礼を受けた土佐の山間、高知県本山町出身で、「婉という女」で有名な作家、大原富枝さんなんて本山町内だけでもスタンプラリーができるほど文学碑があちこちにあるのに‥‥。阪神の方は都会だけに、そういうところドライなんでしょうか。。

記事でも書きましたが、遠藤少年が受洗したカトリック夙川教会は、パリ外国宣教会によって1932年に建てられ、戦災も、阪神・淡路大震災による倒壊も免れた、ネオ・ゴシック様式の美しい壮観な教会。「日本の美しい教会」の一つにも選ばれています。

12歳の遠藤少年はこの美しい教会で、どんな気持ちで洗礼を受けたのでしょうか? 多かれ少なかれ多くの日本人にとっては“異質”な存在であるだろうキリスト教の教会。わたしも遠藤と同じく、家の都合で、生後何日かで洗礼を受けた口なので(せめて12歳ぐらいだったらまた違ったのだろうなあ)畏れ多いものの、少しはその少年の思いが分かるような気がするのでした。。

某「キリスト新聞社」さんではいま、こんな連載もなされていて、紙面はまさに遠藤尽くし。ちょうどこの日は遠藤文学の中でもわたしがいちばん好きな「わたしが・棄てた・女」が取り上げられていたので、興味深く読ませていただきました。「棄てられたものが棄てたものを救う」。深い言葉ですよね。。

というわけで、珍しく、二日連続のnoteアップとなりました。ではでは。

#沈黙 #遠藤周作 #仁川 #夙川 #黄色い人 #わたしが・棄てた・女


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