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「御手の中で」〜とある老司祭の生涯‥4

〈連載小説4回目です。2011年3月の終わり、西日本のとある市で一人“孤独死”を遂げていた実在した老司祭。彼の魂がなぜか、震災後の東北と思われる場所に飛び、そこで一人の女性と出会った。。カトリックのクリスチャンでないと分かり難い部分もあるかと思いますが、戦前戦後のベルギーの暮らしぶりなど、司祭自身が書き残していた回顧録から書き起こした史実も多く、よく読んでくだされば彼がなぜ戦後の日本へと宣教に来たのか、その気持ちが少しでも分かっていただけるかと思います。繰り返しになりますが、1回目 https://note.mu/floret/n/n231f553e922e は無料で読めますのでよければ読んでみられてください。ではきょうはここからが本編です〉

Ⅲ章 不思議な邂逅

       ++今日子の回想1 母の言葉

今日子は東北沿岸のK市に1960年代の後半に生まれた。3人姉妹の長女。今日子が6年生のとき、真ん中の妹は3年、下の妹は1年。どこの地方都市にも子どもがあふれていた時代で、今日子の通う公立小も過去最高の児童数に達し、当時、市内でもいちばんのマンモス校だった。広い敷地は、校庭には長くて大きな石段、校舎内には一段踏むごとに、ミシミシいう木の階段があり、それぞれが、上下に分かれた校庭と校舎をつないでいた。上級生は上の新校舎、下級生は下の古い校舎と運動場の脇に建てられたプレハブに教室があり、母が「参観日のたびにどんなに大変か」と半ば自慢気に人に話していたのを覚えている。

母にとっては「いい子」だった。もちろん自分がまだ一人っ子だった時のことは記憶にないが、妹がある程度大きくなってからは、何かにつけ手の焼ける彼女たちの方が、母にとっては常に関心事だった。母親の胸中で、いろんな面で手の掛かる子には時折激しく湧き上がってくるような愛おしさは(それは時には厳しく叱咤した後でということもあったが)、放っておいても特段、問題を起こすこともない長女にはついぞ感じることはなかったように思える。

「今日子は勉強はできても優しくない」

そう何度言われたことだろう。その言葉は今日子の胸に重く垂れ込めた。自分は優しくないんだろうか‥。子ども心に自戒したが、妹に比べて自分のどこが優しくないのか分からない。自分は人から見れば、嫌な子なのだろうか。無意識に人に意地悪をしているのだろうか。姉と比べて成績は悪いが、友達も多く、その分、学校でも数々の問題を起こす妹を(それは例えば中学校の制服のスカートが短か過ぎるといったことだったが)、母は「あんたはどこまで言えば分かるの? 分からないなら、あんたを殺して私も死ぬから」と鬼気迫る顔で包丁を持って追い回したこともある。教師に呼び出されて学校に出向いた日には、反対に「この子のどこが悪いと言うんですか。先生が生徒を信じないでどうするんです」と逆に教師に迫り、土下座して謝らせたこともある。そうした騒動を見聞きするにつけ、今日子はどこか寂しく、妹を羨ましく感じた。もっとも、どこの長女もそういうものかもしれない。ありふれた3人姉妹の、どこか満たされず、寂しさを抱えた長女。小さな海辺のこの町で、そんな少女時代を彼女は過ごした。

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次に口を開いたとき、今日子の声は一段と小さくなっていた。

「神父さま。私は信者ですけど、幼児洗礼です。生後何日かで受けたみたいで。もちろん、ぜんぜん覚えてませんけど」

それだけ言って大きく息をついた今日子の背中を司祭は優しく叩いた。

「そう。君は生まれながらにして大きなお恵みをもらったんだね。私もそう、幼児洗礼だよ。でもベルギーではそれが普通だった。日本でそういう子は少数だ。だから余計にそれは幸せなことだよ」

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