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壁画とクラブハウスと感覚器官と:「伝えあう」「わかりあう」流儀の文化的・個人的多様性のこと

昨日の新聞白旗(6号)で、コミュニケーションの中での「言葉にならないもの」について、つたなすぎる文章を書きました(なんとなく。。またしても偏りすぎた文章を書いてしまった気がしてどうしようーと思ってたのです)が、そしたら今日、これが目に入ってきました。

何気なく開いた整体協会の会報誌『月刊全生』の1ページ目に。

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眼は見る道具である しかし目があるが為に見えないことは、見ることよりさらに多い。

口は言葉を言うが、その為に言えない真実を見失う。

野口晴哉さんの言葉です。

心がちょっと、しん、としました。

ただ、だからといって言葉によるコミュニケーションに意味がないってわけではないことも、そこに真実がないってわけでもないこともわかっていて。目に見えるものに意味がないとかそこに真実がないってわけでもないことも、わかっていて。どれもあってこそなんだよね、Variety&Balance(いろいろがあって、それらのあいだにバランスがあること)だよね、ということを胸に置きつつ、今日はなんとなくこの「伝える・伝わる・伝えあう」について思うともなく思いつつ過ごしてたのです。

そしたらさっきFacebookを開けたら、こんどは「思い出機能」によって、去年書いた「壁画」についての投稿が表示されてきました。また違う次元での、「伝えあう」を指さししてもらったかのようでした。

「伝えあう」「わかりあう」の流儀の多様性については、いろんな角度から見ていきたい気持ち。なので以下転載してみます。

壁画で伝えあう、メキシコ

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△ディエゴ・リベラ作の壁画。メキシコシティのパラシオ・ナシオナル (国立宮殿)の中にある、メキシコのこれまでをつづった連続壁画のうちのひとつ。

ディエゴ・リベラの壁画について、「壁画運動の当時は文盲率が90%以上だったから」と見聞きしたけれど、今朝起きぬけに、待てよ、と思った。

インドもそうだけれどメキシコも、文字も言語も異なる多民族で構成されている土地柄ゆえ、共通言語がない、というのが正確なところだったかも。。
この「多様であることが当たり前」の感覚は、日本列島に暮らしているとなかなか体感しずらい部分かも、と思った。

多様な人々が多様なまま、連帯するということ。そのための工夫の1つとして壁画運動もあったのかもと思った。そして2000年代でも壁画運動は脈々と受け継がれていることをメキシコでは目撃しました。

南部のオアハカ市に長く滞在したのだけど、オアハカはメキシコシティとはくらべものにならないほど治安もよくて、手仕事がさかんで街のすみずみまでセンスのよさがあふれてて、かわいいもの、美しいもの、たのしいもの、すてきな音楽でいっぱいなのだけれども、2006年にはこの街全体が民衆対州政府の戦いの場になった過去がありました。

2006年当時の月刊国際評論紙「ル・モンド・ディプロマティーク」によると、「2005年、知事が強圧的で腐敗しており、選出時にも不正があったと考えるオアハカの州民は蜂起した」。7万人の教員がストライキを行って知事の辞職を求め、「州のほとんどの社会団体が加盟するオアハカ州人民会議も、教員の要求に同調」「市庁舎、公共施設、ホテル、空港が占拠され、平和的な市民的不服従が呼びかけられ、行動の先鋭化が進んでいる。住民は団結し、州行政は完全に停止」「(州政府指揮下の)準軍事グループと州警察が、オアハカ市内に築かれた約1500のバリケード(州全域では3000)、住民が占拠した80の公共施設と12のラジオ・テレビ局を日々攻撃している」(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2006年11月号)。

2006年12月に現地を訪れた人によると「ソカロ(広場)に向かうと、その入口が連邦警察の装甲車でブロックされており、若い警察官たちが見張っている」「ソカロの中はおそらく100人は超える警官とそのキャンプ、トラックで埋められ」ていたとのこと。ソカロで「警官隊と運動参加者との衝突、流血事態があったが、その痕跡のあった敷石は取り替えられた」「広場で倒れた人々を警察が後から来た車でどこかへ運んでいくのを近所の人が目撃している。そうした人々が”行方不明者”となってしまうのである」(ラテンアメリカ・レポート Vol.24 No.1掲載、地域研究センター主任研究員米村明夫さんによる記事より)。

観光業に携わる人はこのときの蜂起に批判的みたいでした。でも農村部では食品を集めて後方支援をするなど、本当に変革を求めて戦っていた層の団結は深かったようです。

わたしには内実はよくわからないけれど、こういうことを乗り越えて今のオアハカがあるんだ、ということはわかった。街で見かける壁画は結構最近描かれたものも多いのだけど、この2006年の蜂起のときに地元の美術学校の学生たちが中心になって結成したASARO(オアハカ芸術家革命集団)というグループがあって、壁をお互いのコミュニケーションや世界への発信メディアとして活用し続けているようでした。

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△オアハカでお世話になっていたおうちからすぐのところで見かけた壁画。文字部分の意味はたぶん「私たちの身体であるこの地を守るために」。壁画の足元には人型の影に名前が添えられたものも描かれていた。

同じく2006年の蜂起をきっかけに結成されたLAPIZTOLA(”鉛筆ピストル”の意味)という芸術家集団も、今も壁をキャンバスに政治的・社会的なメッセージを発し続けています。こちらはUKのバンクシーの影響もあったりするらしく、ステンシルを取り入れてる。

壁画は物理的に万人に開かれていること、そして言語を超えてコミュニケートできることに最大の強さと優しさがあることを思った。描く人にとっては、面積も広いし半端ない労力がかかるわけだけど。。

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△LAPIZTOLAによる壁画。この作品は、「やつらは我々を生き埋めにしたがったけど、我々が種であることを知らなかった」というフレーズを基にしたものだそう。

「これまでメキシコで起きてきたすべてのことに言及しているのです、行方不明になった学生たち、特定の発言のおかげで殺害されたジャーナリストたち……。この絵の女の子は希望の象徴で、彼女の花咲く心臓は人々に希望を持ち続けるよう、勝ち取ろうとしてきた理想を見失わないよう励ましています。さらにこの壁画はわれわれのルーツを表してもいます。この子の外見はインディヘナ。メキシコではインディヘナに対する差別がかなりあります。事実上メキシコ人は全員インディヘナのルーツを共有しているというのにね…。インディヘナは社会的地位が低いと思っている人がいるのだけど、われわれはみんなに自分のルーツ、そしてひいては自分のアイデンティティに対して誇りを持ってほしいと思っているんです」(ミシガン大学GIEUプログラムのサイト「Oaxaca Arts」掲載のインタビュー記事より和訳してみた: http://oaxacaarts.com/painted-arts/lapiztola/ )

ひるがえって。。クラブハウスは「口述文化」系?

壁画に圧倒的にあるのは物理的ビジュアルで、圧倒的にないのは物理的サウンド。クラブハウスはある意味壁画の真逆で、圧倒的にサウンドがあって、ビジュアルがない。そのうえメモ禁止・録音禁止というルールのおかげで、壁画のような恒常性がまったくなく、一過性しかないですね。

まだ自分は、クラハを始めてみたもののよく勝手がわからないでいる域にいますけども、それでも、興味深い人が興味深いことを話してくれているのをたまたま聞けると「こんなすごい内容を聞かせてもらって、タダでいいのかー!」と言いたくなる瞬間もちらほらあって。

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△このときのルームなど、ほんとにすばらしくて「課金させてください」と言いたくなった。。(メモ禁止だけど、ルームのタイトルのスクショもNGではないこを祈る。。もしまずいようならどなたか教えてください💦)

人に話を聞かせるため、人に自分を知ってもらうため、というのではなく、「この人とこの話をしてみたい」と思ってる人同士の対話とか、「この人とこの人がこの話したらどうなるかな」という実験精神の中で、お互いにインスピレーションがやってくるのを純粋に楽しんでいるように見受けられる人たちの話はとても刺激的です。

そんなわけで、ちょこっとかじってみているわけですが、先日、「どうもクラハには黒人系の人口のほうが多そうな気がするけど気のせいかな」と相方と話していて、「口述文化の比重が大きかった文化圏の人たちがクラハに親和性を見出してるんではないか」説が浮上しました。

自分がフォローしている人たちのつながりから、たまたま黒人系の方々が多そうな印象になってるだけかもしれませんけども。。

口述文化は、そこからうたや音楽による伝えあいが大事になってくる文化だと思うのですけども。

沈黙の使い方が、するとまたすごく意味を持ってくるわけで。。。興味深いです。

(ただクラハは壁画と違って、現時点ではまだ万人に開かれていないところが微妙ですね。ある程度のセキュリティーを確保するためとはいえ。。。)

文化的特性のほかに、個人的特性ももちろん

クラブハウスをとおして人の話し声が流れては去っていく「音」を聞いているのは(声質にもよりますが)、私はわりと好きというか大丈夫なのですが、相方には声というのは刺激が強すぎるみたいで、あまりずっとは聞いていられないみたいです。

世界を経験するときの感覚器官(視覚・聴覚・身体感覚・運動感覚・味覚・嗅覚など)それぞれの感度というか敏感さは、人によってさまざまですね。

わたしは視覚のほうが敏感みたいで、視界の中がごちゃごちゃしているとつらさを感じます(目の前にモノがとっ散らかっているときとか)。相方はそれはそこまで生理的につらくないみたいで、どちらかというと音の刺激のほうがつらそうです(掃除機の音とか、背後からの人の話し声とか)。

そういえば、以前、何かを学ぶときに自分にとってはどの感覚器官チャンネルが学びやすいかを知っておくと助けになるよ、という話を友人がしてくれました。その話をしてくれた人はピアニストだったのですが、おもしろいことに、本人は聴覚チャンネルが一番得意のはずと思いつつ診断テストをしてみたら、何かを学ぶときに本能的に多用してたのは視覚チャンネルだったそうでした。

私もその診断テストをしてみたのですが、どうやら聴覚チャンネルを一番多用しているらしいことがわかりました。自分は視覚寄りの人間だと思っていたので、ちょっと意外でした。

感度の高いチャンネルは、そのチャンネルの情報をきめ細かく受け取れる反面、そこからの情報に圧倒されやすくもあるからかなあと思いました。なので二番目くらいに感度の高いチャンネルのほうが、何かを新しく学ぶときには有用なのかもしれません。マイルドな刺激のほうが、神経系にやさしいというか。

話が全然それてきちゃいましたが💦とにかく、個人レベルでも、文化のレベルでも、伝えやすい・伝わりやすい流儀って、いろいろ多様なんだな、と思います。ひきつづきここらへんへの興味を胸に宿しつつ、過ごしてみようと思っています。

しかしほんとに。。豊かだなあ、いろいろあるって!








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